2年半ほどニートをしていた

私の知り合いの中のさらに一部にしか読んでもらえ無さそうな記事だけど。

 

そもそもの経緯

2012年春に(以前からやってみたかった)起業をしてみようと思い、会社をやめたものの何をしたらよいか分からず、とりあえず色んなイベントに参加したりベンチャーキャピタルが主催する合宿に参加したりしていた。

 

そうしたら知り合いも結構出来て、会社員をしていたときよりも色んな人とコミュニケーションを取るようになって人生のQOLが上がった。

 

自分がやりたいのは、大好きな数学や物理学とコンピュータ・サイエンスを使って儲かるソフトウェアを作ることで、2012年当時、それがいちばんできそうな分野はアドテクだった。VCの主催する合宿でも、チームを組んだメンバーがアドテク推しだったのでそれでプレゼンしたらそれなりにウケた。

 

というわけで、合宿後もアドテクを独学で色々調べて、クッキーマッチングとかリターゲティング広告とかRTB(Real Time Bidding)の仕組みなどを調べて、一応アドテクやってますという会社を作ってみた。

 

フリーランスとして定期的に稼ぐ状態まで

同じ時期に起業した知り合いたちは、VCからの資金調達をした人が少なくなかった。私もVCの方に定期的にミーティングをしていただいて、事業計画を考えたりしていた。

 

しかし、私の能力的に、出資を受けることは出来なかった。

 

私にとって、儲かりそうなプランを考えれば考えるほど、私の大好きな数学から離れていくので、起業した動機に忠実であろうとするほど、儲からなそうなプランばかりプレゼンしたくなってしまうのだ。

 

その反動で、私はVCからの調達とは逆の方向、すなわちフリーランスとして日銭を稼ぐ方向に注力した。新しい技術のサーベイをして、勉強会で知り合った人に自分をアピールし、定期的な契約をもらってフリーランスとして稼ぐ、というのを2年ほど積み上げていった。

 

その結果2014年春〜2016年春くらいまで、定期的に毎月170万円ほど稼げるようになった。

 

フリーランスの仲介会社を通さなくても、ゼロから半年でそのくらいまで持っていく営業のノウハウを見つけた、という手応えがあった。

 

割のいい時給コンサルを断つまで

それでも、フリーランスとして稼ぐのは基本的に「単価の高い時給アルバイト」である。一番高かったのは時給4万円、安かったのは時給5千円。

 

しかしそもそも自分で事業を起こしたくて起業したのだ。それなのに、自分の時間を切り売りしている自分が嫌になった。

 

自分は独身でプライベートではお金を殆ど使わないため、大学生のアルバイトを集めて「ドローンのソフトウェア」という2014年〜2015年当時ちょっとバズり始めたことをやってみた。プロダクトは全然作れてないにも関わらず、展示会に出展してみたりもした。

 

それを元に引き合いを辿った結果得られたのは、「さらなるコンサルティング案件」だけだった。つまり、私のフリーランスとしての時給ビジネスに対する引き合いが増えた、という結果だった。

 

それでは自分で事業をする意味がない、と思ってそれらの引き合いは全て断った。

 

さらに、アドテク関連や、その延長で取れていたフリーランスデータサイエンティスト的な定期案件も全て自分から契約打ち切りを申し出た。

 

それでも、受託開発の案件がちょこちょこ入ってくるので、食うにこまることはないかな、という状況だった。

 

そんななか、アルバイトの学生たちも、学業に専念したいとか、他にもっと面白そうなアルバイト先があって誘われたとか、そういう理由で辞めていってしまった。

 

プリファード・ネットワークスの衝撃

そうやって、独立して改めて自分の無能さに直面する日々の中、プリファードネットワークスという会社の存在を知った。衝撃的だった。

 

「私がやりたかったのは、こういうことだ。」

 

本気でそう思った。しかし、私には学術的にもビジネス的にもトラックレコードがなく、プリファードネットワークスに応募してもスキル的にも門前払いなのは火を見るよりも明らかだ。

 

「プリファードネットワークスで働けるほど、自分にスキルがあったらなぁ。。。」

 

って、本気で思った。

 

そんな気持ちを持ちつつ、日銭を稼ぐために受託開発や単発の機械学習コンサルなどをする日々。このときは月商で70万くらい。

 

なんかもう、なにもかもイヤになってしまった。(2018年の秋ごろ)

 

ニート生活の満喫その1

それで現実逃避して、仕事をせずに引きこもってパソコンでゲームばっかりする生活を始めたわけだが、ちょうど2018年の秋にsteamで正式リリースされたRimworld(リムワールド)というゲームにハマりまくった。

 

これは本当に面白くて、いわばシムシティに経営シミュレーション要素を加えたようなゲームで、のべ2800時間くらい遊んだ。

 

朝起きる、ご飯を食べずにリムワールドを深夜までやる、コンビニに行って食事を買ってきて食べる、風呂入って寝る、という生活を1年ほど続けた。

 

そうしたら、流石に飽きてきた。それで、別のゲームをやってみた。(2019年秋くらい)

 

ニート生活の満喫その2

リムワールド以外にも面白いゲームがいっぱいあることが分かった。

 

その中でも、「Stellarisステラリス」「FTL」「Oxygen not Included」という3つのゲームにはマジでハマった。この3つに掛けた時間は合計1500時間くらいかと思う。

 

そんなゲーム三昧の日々の中、ヤバいゲームに出会ってしまった。それが、「Outscape(アウトスケープ)」というゲームである。(2019年冬)

 

 

このゲームは、いわゆる宇宙を舞台とした「シムシティ+経営シミュレーション」であり、しかもオンラインでライバルたちと競い合うという抜群の中毒性を備えていた。これはいわゆるインディーゲームで、全世界で(たぶん)5000〜10000本くらいしか売れてない超マイナータイトルだった。

 

アクティブユーザ数も500〜1000人程度なので、ちょっと頑張れば世界一になれるゲームだった。それで私は世界一を目指すことにした。

 

アウトスケープには、のべ2900時間くらい使った。 

  

しかし500人の中でトップに立つのはそんなに簡単ではなかった。半年くらい寝食を忘れてやった結果、2020年7月上旬、ついに私はトップに立つことが出来た。それも、ゲームの複数あるランキングで二冠を達成する(それは500人のうち2人しか達成してない)という小さな栄誉も勝ち取った。

 

皮肉な話、それは2012年に起業して以来、もっとも自分の承認欲求が満たされた瞬間だった。

 

ニート生活その3

そのゲームはインディーゲームなので、ゲームのバグ報告や改善要望などをDiscord(ゲーム向けのチャットサービス)やオンラインフォーラム(いわゆる掲示板)で行うコミュニティがあった。

 

私は拙い英語力にもかかわらず、そこでのコミュニケーションにもハマった。英語で海外のゲーマーと議論したり一緒にゲーム上でアライアンスを組んだりするのは本当に楽しかった。

 

英語力を補うために、グーグル翻訳やDeepLというサービスを使いまくった。自分の英語力はTOEIC600点くらいなのだが、ネットの翻訳サービスを使えば簡単に海外の人とコミュニケーションが出来てしまう、そういう時代になったことも驚きと楽しさを感じた。

 

しかし、2020年夏ごろ、それも飽きてしまった。

 

それで、大好きだった「数学や理論物理学の独学」というのを再開した。貯金はまだ2年くらいニートできるくらいあったので、呑気に仕事せず毎日数学の勉強をする日々が続いた。

 

よく分からなかったガロア理論も、リーマン幾何学一般相対性理論も、熱力学や統計力学も、場の量子論も、ネット上に落ちてるPDFや最近出ている入門書籍を買って読んで、案外難しくもないと分かった。

 

しかしそうやって自分の数学力が上がるに連れて、中学生の頃に夢みた、「フェルマーの最終定理の証明」や「超ひも理論」を理解するレベルまで到達するのに必要なレベルも分かってきた。自分がそのレベルに到達するには3〜4年くらい掛かりそうだ、と。

 

そうすると、自分の残りの貯金額ではその夢を叶えることが出来ない。やばい。

 

それで、今年(2021年)の年明けくらいから、何やって稼ごうかな〜と仕事のことを考え始めた。

 

今やっていることと将来の夢

約2年半、ベンチャー界隈のことも、ビジネスのトレンドのことも、まったく興味なく、キャッチアップもしていなかったので、自分の知識は時代遅れになったんだろうなと思いつつ、色々とググってみた。

 

それで分かったことは、世の中はあまり進歩していなかったということだった。

 

はっきり行って、時代についていくとか、何かにキャッチアップするとか、そういうことはまるで意味がないと思った。

 

意味があるのは、なんかプロダクトやサービスや企画を作って実際に人にぶつけてみること、それだけだと思った。

 

セミナーも、教育も、勉強も、ビジネスプランコンテストも、ピッチイベントも、何もかも意味がないと思う。

 

けっきょく、市場から情報を得るには、何か作ってぶつけてみる以外の方法がないのだとマジで実感した。

 

フリーランスを頑張っていたころのマインドにはもう戻りたくない。何かを作ってぶつけて、っていうのをひたすらやるマシーンになりたい、と思う。

 

そういうわけで、思いついたサービスをプロトタイプとして作り始めた(2021年3月〜)

 

それで一生遊んで暮らせるカネを作って、生活コストの安い田舎に移住して、「フェルマーの最終定理」や「超ひも理論」を理解できるレベルに達したい。

 

それが今の自分の夢だ。

COVID-19の今後についてざっくり調べてみた

ざっくり調べてみたので手短に書きます。

 

結論だけ読みたい方向けに箇条書きすると

  • 現状でも感染は拡大している
  • ワクチンよりもリテラシが大事
  • 収束時期予測は半年~5年やそれ以上と様々
  • 現実策としては、パンデミックを所与としたローカルな個別政策で打開すべき

です。

 

発生源は?

結論からいうと、よくわかっていない。

一応、中国の武漢とされているものの、ヒトに移る前のウィルスの宿主が動物とされていることと武漢に大きな海鮮市場があることから、真の発生源は東南アジア全域(海産物の輸入元)に広げて調べる必要もあったりと、解明は困難な模様。

 

SARSのときも発生源と経路の解明までは至らなかったようで、こういうパンデミックは今後もたびたび発生する社会リスクなのだと思われる。

 

現在の感染拡大スピードは?

世界的に見て、いまも感染拡大中であり、拡大のスピードは依然として大きい。

地図とグラフでみる新型コロナウイルスの感染者数

 

世界全体の動向は仕方がないので、ローカル(国や自治体)のレベルで個別に政治判断が必要なフェーズに移行しつつあると思われる。

 

いつ収束する?

いろんな説がある。ワクチン接種による集団免疫がうまくいけば今年中とする説もあれば、最低でも3~5年は掛かるとする説もある。

 

 

収束時期に影響する要因は?

感染者の母数を減らす、増やさないことに尽きる。

 

そもそも感染しても発症するとは限らないし、発症しても重篤化するとは限らないので、個人レベルの行為でみれば安全だとしても社会全体としては気を付けないといけない、というジレンマがある。

 

なのでソーシャルディスタンスは、自己防衛のためというより、自分がウィルスの媒介者にならないためにある、といっても過言ではない。リテラシの向上こそが収束に影響を与えるもっとも大きな要因だが、その現状を定量化することが難しい。

 

なお病床の数といった医療インフラの整備については、発症してしまった者を対象とする対策だから、母数を減らすという観点では、影響は限定的と思われる。

 

ワクチン接種は有効?

もう一つ、ワクチン接種があるが、これは数が少ないので高齢者や持病のあるかた、つまり感染した時に発症したり重篤化しやすい人に優先的に適用するという政府の方針が示されている。しかしパンデミックの収束という観点で見ると、感染者の母数こそが主要因であり、それを減らす集団免疫のレベルまで社会全体として持っていけるかは全く未知数。

 

収束後はどうなる?

SARSの時と違って、完全な沈静化という状況が今のところ想像できない。

 

人は生まれてから死ぬまでウィルス感染というリスクを意識しながら日常生活を送るという社会になるのだと思う。

 

なので今後もいっそう、オンラインで出来ることはオンラインでなるべく済ます社会になるのだろう。

 

あんまり長期化して緊急事態宣言が常態化すると経済的にヤバくなりそうなので、収束時期の問題とは独立に、パンデミックを所与としてローカルな個別政策で打開すべきだと思われる。

老害のメカニズムについて

40歳を当に過ぎたフリーランス私見を述べてみます。

 

40歳を過ぎると、自分の寿命のことを考えるようになります。自分のこの先の人生に残された時間がそれほど多くないということをかなり実感します。それゆえ、「無駄なことをやりたくない」「回り道をしたくない」という気持ちがかなり大きくなります。

 

老い先短いので、無駄な試行錯誤が怖くなる

最近、某フレームワークを学びながらとあるサービスのプロトタイプを作ってみています。

今まで使ったことの無いフレームワークを使う理由は、それを使うことで設計の複雑さを少し軽減できればいいなという幻想を抱いているからです。しかしそう甘くないでしょう。

 

どんなフレームワークを使おうが設計上のリスクは至るところで存在し、最適でない設計でとりあえず書くしか無い場面がこれからまたどんどん出てくるのでしょう。いやだなぁ。

 

それに、新しいサービスをゼロイチでビジネスとして立ち上げるには、事業的な試行錯誤(PMF: プロダクトマーケットフィット)もたくさん必要になるでしょう。1ヶ月前に1週間以上掛けて書いたコードが全部無駄になるという場面もたくさん出てくるのでしょう。いやだなぁ。

 

そんな感じで、老い先の短さを考えると、なるべく無駄なくやりたいのですが、この「老害的な考え方」は ベンチャービジネスやスタートアップのゼロイチ開発とはまさに真逆の思想です。

 

フローの知識よりもストックの知識を好むようになる

私は、40歳を過ぎた頃から、数学や理論物理学を勉強する時間が増えました。このことからも、プログラミングのような日進月歩の知識ではなく、

  • 「積み上がっていって掛けた時間が無駄にならない分野」

を自分が無意識により好むようになったことを実感します。

 

ビジネスにおいては、40を過ぎると技術よりもマネジメントにシフトするというキャリア戦略を取る方が多いと想像しますが、その戦略にはとても共感します。

 

経済合理的な理由で、相対的な学習コストが高まる

また私は独身だからまだよいですが、家族がいる場合は、新しいことを学ぶ時間を取ることもだんだん難しくなってきます。さらに、収入が上がっていたりするとプログラミング技術のような付加価値を出すのに高度な熟練スキルを要するようなものに注力するのは経済的な意味で非効率になってきます。

 

つまり、かなり合理的な理由で老害要因が芽生えるわけです。要するに、プログラミングみたいなカネにならないことに時間を使うヒマが無いのです。

 

技術とくにプログラミングの世界は日進月歩で、常に学びつづけないとスキルが時代遅れになるという恐れが常にありますが、それに対処することが経済的に非合理的なことなのです。これは非常に困りますよね。

 

 

今までの経験からのアナロジーで理解する弊害

40歳まで生きると、色々な経験が蓄積されてきます。それで

  • 「新しい物事を理解するスピードは実は同レベルのスキルの若い人よりも速い」

です。

 

これは、一般的には逆に思われていると思いますが、確かなことです。既に知っていることに関連付けて、それとの「差分」に注意するだけなので効率が良いわけです。

 

老害的な要因になるのはその先で、

  • 「新しい物事の「差分」が取るに足らないことに見えてしまう」

ことです。

 

新しい物事を理解するときに占めるパートとして、既に知っていることのほうが大きいので、その新しさを生み出している「重要な差分」が、相対的に重要でないように見えてしまうのです。

 

本当は、その小さく見える「差分」こそが革新的であり、そうでなかったら今までの物事がそのまま通用するはずなのです。それが通用しなくなったから「差分」が生まれているのであり、

 

差分の大きさが小さなものに見えてもそれが非常に重要なものでありうる

 

ということを常に意識しなければなりません。これは非常に面倒くさいです。

 

 

全く理解できないことがありうることへの諦めと抵抗

さらに、時代が進歩すれば自分には全く理解できないような技術や物事や価値観が現れるかもしれません。

 

そんな事態は想像したくもありませんが、これまで生きてきた諸先輩方がどんなに優秀であってもそういう老いからは逃れられなかったことを踏まえると、自分もそうなりうるのは明らかです。

 

そんなとき、

  • わからないままに、とりあえず受け入れる
  • わからないものはしょうがないので諦める

のいずれの姿勢も、老害要因になりえます。自分が若い時にこうした態度をとる人たちを見てそう感じたからです。

 

ではどうしなければいけないかというと、

  • 絶対に理解できないことに時間や手間をかける

以外に、老害要因を取り除く方法はありません。

 

これは「老い先短いから無駄なことをしたくない」という老害要因と合せてダブルで効いてきます

 

なぜなら、無理ゲーとわかっているものに、貴重な時間を使うことは苦痛以外の何物でもないからです。これは辛いですよね。

 

というわけで

老害要因をいくつか挙げてみました。

 

いつまでも若い気持ちでいたいのだけど、難しそうですよねぇ(遠い目)。

 

金髪の少女の素朴な質問

半年くらい前の話題のようですが、面白かったのでシェア。

www.dailydot.com

 

素朴な質問が賞賛を浴びた

この若い金髪の女の子はTikTok上でメイクアップをしながら哲学的な質問を動画の視聴者にぶつけます。

 

後のメディア取材か何かでこの女の子が語ったとされる部分を意訳してみます。

 

「ちょうど出かける前にメイクしてたときで、みんなにちょっと言いたいことがあって。それは、『数学が存在する』のが私には考えられない、ってことについてだったの。」

 

「もちろん、数学はみんなが学校で習うものだし(人類にとって)数学というものが確かにあるってことは認めているわ。でも不思議なのよね。数学って誰が思いついたのかしら? そうね、私も(みんなも)知ってる人だと、ピタゴラスって人かしら。」

 

「でもじゃあ、彼はどうやって最初にそれを思いついたの? 彼が生きていたのは、、ええと、何時代かしら、よく知らないけど、つまりそれって、いまみたいにテクノロジーとか物事が進んでなくて、水道の蛇口も無いような時代のはずよ。そんな時代に彼はy=mx+bについて悩んでたのよ!?」

 

この発言がプロの数学者や物理学者の間でも少し話題になり、ツイッター上でその女の子の言動はけっこう賞賛を浴びたそうです。

 

この女の子の発言のイケてるところは、数学を「思いつく」もの、つまり発明のように捉えているところだと思います。

 

自分が古代ギリシアに生まれた市民だったら、ものを買うときお金のやり取りや物々交換の計算で足し算引き算は使っただろうし、農作物の収穫とかで掛け算や割り算も使っただろうと思います。

 

でも、方程式を使って「知らないことを逆算」したり、直角三角形の斜辺を「測らずにロジックだけで」導いたり、っていうのは日常とはかけ離れたかなり人工的で高度でバーチャルなテクノロジーのように感じたんじゃないかと思います。

 

数学って入手した情報だけからロジックだけで新情報を得る、という本当にコンセプトも凄いし方法論もすごいぶっ飛んだテクノロジーだよなぁ…と改めて思いますね。

 

Kaggleの「コンペティションじゃない部分」の面白さと物足りなさ

Kaggleといえば、性能の高い機械学習モデルの作成を競い合うサイト、というイメージが強かったと思います。今のKaggleにおいてもコンペティションはもちろんメインサービスの一つです。

 

しかし、機械学習モデルの性能は、実際のビジネスにおける課題解決にそれほど直接は結びつかない、という経験をお持ちのかたも多いのではないかと思います。

 

もちろん、そのことをKaggleも分かっていて、それ用の機能があります。

 

  • Kaggleはデータ分析の練習用データをサイト上で公開
  • ユーザは、そのデータに対して行うデータ分析の「タスクを定義」できる
  • ユーザは、各タスクに対するデータ分析をJupyterNotebookの形で投稿できる

 

では、具体例を見てみましょう。

 

例:ネットフリックスの視聴データ

Netflix Movies and TV Shows | Kaggle

 

このデータには(本記事を書いた時点で)5つのタスクが付与されています。

  • 動画のレコメンド機能を作れ(※2つのタスクが重複投稿されている)
  • オリジナル動画と、他所からのライセンス動画を比較せよ
  • ユーザが評判の良い動画を見つける方法を示せ(レコメンドじゃなくてもよい)
  • 動画のスコア(その動画の世間の評判)を見やすく表示せよ

面白いのは、コンペティションのように完全にゴールがカッチリ決められているわけではなくて、少し曖昧なゴールになっていることです。

 

それゆえ、データ分析を行う人によって、タスクを自分なりに解釈し自分なりのアプローチで解くという自由度が残されています。

 

レコメンドエンジンであれば、推薦アルゴリズムの選択の自由度(これはコンペでも自由ですね)はもちろん、評価方法について自分で決めてよいわけです。

 

また可視化のタスクについて、(当然ながら)より自由度が高くなります。Kaggleに投稿されたノートブックはユーザどうしで評価しあう「Vote(投票)」といういわゆる「いいね!」的な仕組みがあって、それを可視化の良し悪しの基準としてみることも出来ます。

 

ノートブックを読んで学ぶ

ノートブックのコメントで、なぜそのような手段を用いてるのかの理由を添えているものが多いので、それを読んで具体的なデータ分析のステップの妥当性を考えながらノートブックを追っていくことでとても勉強になります。

 

特に前処理や特徴量作成は性能だけでなく、予測結果の解釈性や、仮定したドメイン知識の妥当性などと直結するため、データ分析者の「ウデの見せ所」であり、ノートブックの数だけオリジナリティがある、とも言えます。

 

Discussionタブ

タスクの曖昧さについて確認しあったり、ノートブックに関して質問をしたり、といったことは「Discussion」タブにある議論用のスレッドで活発に行われています。

 

またデータ分析の途中でハマってしまったときに質問するData Science Stack Exchange的な使われ方もしています。これはそのデータに特化した話だからStackExchangeではなくKaggle上で質問する、というケースですね。

 

物足りない点はQuoraで補うべき?

ただ少し残念な点として、

  • そもそものタスクの定義自体の妥当性
  • そのタスクがもたらす価値
  • 想定される実運用への移行難易度
  • データ(質的に、量的に)を増したらどうなるか?
  • あとxxというデータがあるとさらにyyができるのでは?

といった点については情報があまり豊富でないことです。

 

Kaggleはあくまでもデータ分析スキルをシェアするサイト、という印象は否めません。

 

これについてはQ&Aサイトである Data Science - Quora などを参考にすべきなのかもしれません。

 

しかし与えられたデータセットに特化したタスク、想定されるデータセットで出来るタスク、といった「データと、その上の『お題』」について特別に話し合う場があっても良いはずで、その領域はちょうどKaggleとQuoraの間のところにある感じがしますね。

 

というわけで

物足りない点もありますが、ネット上でかなりのことが学べることは確かです。

 

すごいイケてるタスク定義とか分析プロセスとかを見つけたらまたご紹介しようかと思います。

 

ではまた!

分断の時代における行動指針について

現在~近未来は「分断」の時代だと言われます。

 分断は悪いものでしょうか? 良いものでしょうか?

私なりに考えてみたことを書いてみます。

 

 自由と合理的行動

社会の様々なところで分断が浮き彫りになる前の時代は、「グローバル化」がポジティブな意味を持つ言葉でした。
グローバル化によって、さまざまな価値観が「流通」し、その交差点にグローバルな創造が立ちあらわるというユートピア的な幻想を多くの人が抱きました。

 

そのモメンタムは非常に強く、「グローバル化」はいまでも基本的にはポジティブな意味合いを帯びています。それは結構長い間(ここ30~40年くらい)「良いもの」だったわけです。そのせいで、「良いものだから、やらなければならない」という「暗黙の前提」が生まれました。

 

これは強制力です。

 

強制というと何か自由を束縛されるようなイメージを抱くかもしれませんが、これは自由行動を前提としても逃れられない力です。例えば、Googleを使わずにインターネットを使うことは極めて非効率的なことです。合理的な行動をしようとするかぎり、グローバル化の強制力が働くわけです。

 

つまりグローバル化は「自由」と「合理的な行動」というこれまで両立するのが当たり前だった2つのどちらか一方を犠牲にしなければならなくなったことを意味します。

では、「自由」と「合理的な行動」はどちらが大事でしょうか? 相対的にあきらめても良いのはどちらでしょうか?

 

それぞれについて、一方をあきらめたらどうなるか、考えてみましょう。


自由をあきらめた場合

この場合、引き続きグローバル化に積極的に乗っかり、合理的な行動をこれまで通り積み上げていきます。言葉や文化の壁を越えてインターネット上であらゆる人々が多様な価値観を認め合い、そのなかでコラボレーションによりグローバルな価値創造が無限に広がる世界。

グローバル化という津波の上でサーフィンをする人たち。津波の上でサーフィンをするには、常に津波に合わせてしっかりと自分の行動を合理的にコントロールしなければなりません。非合理的な行動をすることは津波から落ちて波に乗り遅れることを意味します。

 

世界は多様な価値観の交差点であり、そしていずれの価値観にもグローバルNo.1の覇者が存在し、世界はその覇者を中心に回ります。

 

独自の価値観を意味のあるものにするためには、No.1にならなければなりません。その視点にたつと、コラボレーションという行動は、価値観の融合によってNo.1になる確率を上げる行動である、とみなすことも出来るでしょう。

 

グローバルな世界では文化とはマッシュアップの素材に過ぎず、プロダクトやサービスの最終価値こそがすべてであるという考え方を徹底することで、多様な文化から多様な価値が無限に生成されてゆきます。


合理的な行動をあきらめた場合

こちらの人々は、インターネットで検索しても出てこないようなマイナーな店を見つけることに「良さ」を感じます。

 

相撲、能や歌舞伎、落語、日舞といった伝統文化に誇りを感じ、美しい田舎の風景やお辞儀や敬語といった日本人の美意識は外国の美意識がどう変化しようとも独立に存続しうるものだと信じます。

 

海外で英語のコメディアンが落語的なストーリーを英語文化にアレンジして語ってYouTubeで人気者になったとき、彼が日本の落語を単なるアイディアのマッシュアップ素材とみなしていることに強い嫌悪感を抱きます。

 

日本人の料理研究家が日本人の味覚に合う新しい料理のレシピを考えて、それが偶然海外でヘルシーフードとして大ブームとなったとき、その料理研究家が海外に移住せず、メディアのインタビューで「引き続き新しい日本食のレシピを日本人のために考え続ける」と語ったことが大絶賛されます。

 

新しいテクノロジーは自分たちの価値観に合うものは積極的に取り入れ、価値観に合わないものはしばらく保留します。江戸時代に生きた人々は今のようなテクノロジーをもっていなかったけど、決して今の人々よりも不幸ではなかったと考えます。

 

グローバルな世界がどのように進歩しようとも、人間の生存を維持するレベルのテクノロジーは十分にあり、貧しくても死ぬようなことは無いのだから、世界の発展よりも自分たちが生まれたこの地の文化と伝統を維持発展させていくことに注力します。

テクノロジーの恩恵を真っ先に受けることは無いにしても、それがコモディティ化して安価になった時点で自分たちの価値観や文化に合わせてアレンジして取り込めば、競争に巻き込まれずにいながらそれなりの豊かさを享受し続けられると考えます。

 


合理性を一部捨てることの意義

さて、2つの場合について考えてみて思うことは、合理的行動を100%完全に遂行しなくてもそれなりに豊かさを維持できそうだ、ということです。

むしろ合理性を1部捨てて、グローバル化と適度な距離を保つバランス感覚を洗練させていくことに、かなりのリアリティを感じます。

合理的でない行動に基づいた価値創造にもっと目を向けるべきではないかと個人的に思います。

 

では具体的な行動指針をいくつか考えてみましょう。

 

具体例1:積極的に外出する、人に会う

コロナ禍で外出は控えるよう言われていますが、マスクを着けるという合理的な行動だけを採用し、「なるべく外出しない」という画一的な合理判断を捨てます。

 

外出が悪いのではなく、人に接触するリスクを増やすことが悪いのですから、それさえ気を付ければよいと考えます。このように自己責任で主体的に行動することで、自由を再び手に入れることが出来ます。

 

古来から、多くの哲学者や思想家が、国の政治と市民の自由な行動との関係について望ましい指針を色々考えてきました。「市民」という概念は、そのような思想の総体と考えることができます。

 

ホームパーティを開催しても良いでしょう。参加者たちには、スマホで記念撮影してもよいけど決してSNSに投稿してはならないと繰り返し注意しつつパーティーを始めます。きっとそのパーティは、子供の頃に感じた「大人の自由」という憧れを取り戻す時間になるでしょう。

 

多くの人が、「人の接触に今よりももっと気を付け」つつ「外出の機会を増やす」ことで生まれる(日本のローカルな)経済価値は大きな規模になるでしょう。接触に気を付けながら積極的に外に出ることで、新しい「安全な接触方法」が文化的・技術的に創造される可能性もあります。リアルで人に会うことの希少性が高まっているがゆえに、実際に会ったときの価値を最大化させることにも工夫の余地をたくさん見つけるかもしれません。

 

自由な自己意思をもった「市民」がもたらす創造力が、画一的な合理判断をいったん脇において「自分で考えて行動」する力によってもたらされます。

 

強制力を持つように見えるグローバルな常識は、統計的な最適解という科学的な結果を語るにすぎません。人間を科学だけで強制することはできません。

 

具体例2: アナログ価値の再確認「LINEでごめんね」

私は趣味で数学や物理学を学ぶのですが、いまはインターネット上にたくさんの資料があり、ダウンロードして読むことが出来ます。

しかしそれらをきちんと理解するには、ノートやレポート用紙を拡げて内容を書き写したり無言で何十分も考えたりすることに意義があると信じています。

 

日本人初のフィールズ賞受賞者の小平先生は、大学の学部レベルの数学を学んだ際、分からないところを何度も紙に分かるまで書き写したりしたそうです。この話を知ったとき、小平先生ほどの天才でもそうなのか、と私はビックリしたのですが、その話には続きがあって、そのとき小平先生は中学生だったということで、あぁやっぱり天才は天才かと腑に落ちたのでした。

 

それと、もう一つの例として、とある作曲家から聞いた話ですが、パソコンの前で作曲ツールを開いて考えてるときでもイメージするのは楽器を演奏しているイメージなのだそうです。その人は作曲を学びたい人は、何か一つ楽器を演奏できるといいと言っていました。その作曲家はコンピュータミュージックを教える学校を経営していて、むしろデジタルな音楽の場をメインの活動場所にしている人なのに、です。

 

この2つの話から得られるのは、「創造力」の源泉はアナログであるという当然の教訓です。インターネットの世界は、キュレーションやマッシュアップが大きな価値を持つ世界ですが、そうした「既存の素材の組み合わせ的な創造」を超えたところにある「素材そのものの創造」は、アナログによってしかなしえないことを、もう一度確認すべきです。

 

日々の生活の中で、無意識にデジタル化してしまっていることは無いでしょうか?

 

例えば、妻に帰宅時間が遅くなることを伝える際にLINEを使わずに電話を使うことにしている方は結構いらっしゃるかと思います。たまに忙しくて連絡をLINEで済ましてしまったときに、「LINEでごめんね」という言葉を添えたりすることもあるかもしれません。

 

私はこの「LINEでごめんね」というキーワードが面白いと思っています。このキーワードは、「アナログ価値の再発見」について考えるときの良い出発点あるいはヒントになるのではないでしょうか?

 

というわけで

何か少し新しい考え方を伝えたいなと思って書いてみました。

 

ではまた!

 

数学・物理学の紛らわしい用語トップ5 ~初学者お断り!?~

数学や物理学の用語は、英語を日本語に訳したものが充てられるせいで、初学者を戸惑わせる紛らわしい用語があったりする。

 

本記事は私が主観的に思うトップ(ワースト?)5を挙げてみる。

 

第5位 ローレンツ変換とローレンスゲージ

電磁気学や特に特殊相対論でおなじみの座標変換であるローレンツ変換は、電磁気のローレンツ力のローレンツさんの名前が由来である。

 

しかし、電磁場ポテンシャルのローレンス条件のLorenzさんは、ローレンツ変換のLorentzさんとは別人なのだ。(綴りもtの有無しか違わない)

 

これは理論を学ぶ上での誤解要素はあまりないが、知ったらビックリな事実である。

それを知って注意深く本などを読み直してみるとローレン「ス」ゲージとちゃんと別のカタカナを充てている記述がありいままで気づかずにいた自分にビックリというケースがある(例:私)。

 

第4位 全微分と完全微分

微分と完全微分は同じ概念である。英語でも、total differentialとexact differentialという2つの言葉が同じ意味を指すのに使われるので、これはむしろもともと英語でも紛らわしい用語をそのまま訳して紛らわしさがそのまま輸入されているケースである。

 

微分偏微分を学んだあと、全微分を学ぶとdx/dtではなく単にdxと書いたりして、「dxをdtで割ると~」とか平気で書いてあるのに、他所では「dx/dtは割り算記号じゃないから簡単に割ったりしてはいけない」と書いてあったり、初学者の引っ掛かり度は抜群にある。

 

微分をちゃんとwell-definedな定式化を理解するには多様体論を学ぶのが最短だと個人的には思うのだが、とくに情報工学系では多様体論がカリキュラムに入ってないことが多い。

 

私は全微分の「ちゃんとした数学らしさ」を納得でないまま社会人になって、趣味で独学で多様体論を学んだときに初めて「そういうことだったのか!」と理解したのだった。

 

第3位 群と加群

この用語の紛らわしさは軽微だ。なぜなら、加群は特別な群だからだ。なので変な誤解を招くほどではない。

 

それでも英語では群はgroup, 加群はmoduleであり、群論加群の理論はまるで数学の別分野かと思ってしまうくらい、それぞれに豊富な内容がある。

 

加群を「特別な性質を持った群」だと思って掛かるとそれなりに痛い目に合う。

 

群の基礎を学んでなくても加群を学ぶことはきっと出来るが、線形代数を学ばずに加群を学んだらめっちゃ苦労する。

 

第2位 多様体代数多様体

多様体は英語でmanifold, 代数多様体はvarietyである。たしかに代数多様体は特別な種類の多様体だとみなすことは出来なくはないが、群と加群の違いと同様、この両者それぞれの上で展開される数学の理論はかなり異なる。

 

代数多様体を学ぶ準備として多様体論を学ぶ」のは、「加群を学ぶ準備として群論の基礎を学ぶ」よりもはるかに意味が薄い。

 

第1位 エントロピーとエンタルピー

これはどちらも熱力学という分野の用語でしかも音韻的に似てて紛らわしい。しかも情報工学科で熱力学を学ぶ前に情報理論を教わっていたりするので、エントロピーはなんとなく分かるけどエンタルピーは全くわかないという事態に陥りかねない(例:私)。

 

情報理論エントロピーは熱力学よりも統計力学エントロピーと一緒に学ぶと良いと思われるが、情報工学科では熱力学は教えるのに統計力学は教えなかったりするからまた厄介である。

 

「熱力学関数」と「示強性変数と示量性変数の双対性」という熱力学の概念をまず教えて、「熱力学関数はエネルギーの単位を持つ状態量である」「エンタルピーは内部エネルギーとは異なるユースケースを持つもう一つの熱力学関数である」、「圧力と体積は示強性と示量性の双対関係にある」、「示強性変数と示量性変数を掛け算するとエネルギーになる」、「エントロピーは温度を示強性変数と見たときの双対な示量性変数である」と教えれば、情報工学徒でも一発で理解できるはずなのに…

 

というわけで

最近は新しい用語に出合ったらなるべくすぐに英語でそれを何というのか調べるようになりました。