語彙力シリーズNo.1 「機序」

今日は新しいテイストの記事を書いてみます。

 

日本語の語彙をみんなで増やしていこう!という趣旨のシリーズ第一回として、「機序(きじょ)」という言葉を取り上げてみます。

 

機序とは?

この言葉は、とくに「作用」という言葉を伴う「作用機序(さようきじょ)」という熟語で使われることが多いです。作用機序は典型的には「薬が効くメカニズム」を指すときに使います。

これに代表されるように、機序という言葉は医事・薬事(いじ・やくじ)において使われることが多いです。

 

機構や機能と何が違うのか?

機構という言葉には、何か静的な事物であって、仮に動きがあってもその動きの前後で変化せずもとに戻る、というニュアンスがあります。

例えば、社会的な組織で「何とか機構」みたいな団体があったりしますが、それは何らかの社会的機能を持っていたとしても、その機能を果たすことでその組織自身が変化してしまうことはふつう想定しません。

 

機能という言葉は、「能」という漢字が持つ「能動的」「主体的に働きかける」をニュアンスとして強く含んでいます。逆に言うと、機能する対象のほうが「受動的」であるというニュアンスも含むことになります。

例えば自動車でしたら「人や物を運ぶ」という機能がありますが、自動車の機能の対象は、「人や物」「出発地や目的地」になりますが、これらの対象はそれ自体では能動性をもっていません。また例えば車のハンドルには運転者の手動操作を車の動力機構(ここは機構という言葉ですね!)に伝えるという機能がありますが、この「伝えるという機能」を主体的に果たすのはハンドルであって運転者ではありません。(運転者は単に操作をハンドルに示しただけで、タイヤにそれを伝えてはいません)

 

それに対して、機序という言葉には、機構と比べて「働きの前後で状態が変化する」というニュアンスを持つこと、機能と比べて「主体が能動的に何かに働きかける」というニュアンスが薄く「主体や対象といった区別を超えた全体図を指し示す」ニュアンスがあること、という違いがあります。薬の作用機序というのは、薬そのものに機能があるわけではなくて、生体にもともと備わっている仕組みをうまくテコ入れすることで全体として望ましい働きをさせているのだ、ってわけです。

 

「機序」を使う場面

特に生理的なメカニズムについていう時にはピッタリの言葉です。(物理法則に基づいて動く)機械や(法律などルールに基づいて運用される)社会的組織と違って、生体内の仕組みは何かが働くと状態が変化することが多いためです。

 

なのでそうしたニュアンスをふまえると、比喩的に「機序」という言葉を(例えばビジネスでの提案書などを想定して)使う場面としては、説明したい事柄が生理現象によく似ているようなケース、薬の開発が生物の体内という複雑で変化に富むものを相手取るために正当性があくまでも経験則(治験とか)にゆだねられがちであるのに似た現象を説明したいようなケース、などが相応しいでしょう。

 

というわけで

また次の言葉でお会いしましょう。

ではまた。

死と他者性

明けましておめでとうございます。今年も本ブログをよろしくお願いします。

 

で、正月早々縁起でもないタイトルで申し訳ない限りですが、今朝は少しだけ「将来の自分の葬式」について考えたりしてました。

 

小さい頃から「自分のことは自分でやりなさい」って親に良く言われて育ったという人は僕だけじゃないはず。じゃあ「自分の葬式」を「自分でちゃんとやる」にはどうしたら良いのでしょうか?

 

最近は終活という言葉があるとおり、いくら独り身で旅立ったとしても、自分の葬式代くらいは個人資産から出せるくらいのお金を残すのがマナーだろうとは思います。つまり自分の「さよならセレモニー」のスポンサーは自分ですよと、それはいい。

 

でも、そのセレモニーを自分自身では執り行うことはどうしても出来ない。自分のことなのに、自分ではできない。絶対的な他者依存性が、人生の最後の最後に置かれている。

 

さらに良く考えると一つ面白いことに気づきます。出生は必ず母との2者の間で行われる=他者性と物理的に不可分の出来事であるのに、死亡は物理的に自分自身という1者のみで行われる出来事であることです。この非対称性は当たり前なんだけど、凄く興味深いことです。

 

そして葬儀を含めて考えると、この非対称性は消え、対称的になります。すなわち、「始めと終わり」がどちらも他者との関わりを物理的に含むものになります。では、その対称性をもつ始めと終わりをひとつなぎに眺めたら、人の生涯はどのようにみえるのでしょう?

 

(1)最初の自立とは自身の生誕であり、それは母からの分離であり「最初の他者の誕生」でもあります。

 

(2)そして青年期にまで成長する中で社会的な自立を目指します。それはいわば「依存先となる他者の分散化」です。大人になるというのは、多様な価値観を持つ様々な他者との関わり合いのなかで自己を生きることです。

 

(3)そして最後に、自身が死滅します。ここで、自立は究極の形、すなわち「自己の、絶対的な他者への完全な依託」という形をとることになります。

 

つまり、人の生涯を他者性の側から見ると、「1.他者の生誕」「2.他者への依存」「3.他者への依託」という流れがあるわけです。

 

僕はティーンエイジャーから20歳過ぎくらいまで「自分がいつか死ぬ」ということが怖くて悲しくて仕方がありませんでした。いまでも本当に怖いです。でもそれは、自分の生涯を自分自身から見た視点において抱く感情なのかもしれません。

 

生涯を他者視点でみたとき、上で述べた「流れ」をふまえると、それは小さい兆しのようなものがポッと出て少しずつ大きくなりどんどん広がってついにはそれが生まれて自身と一体化するような、そういう流れにあるものと認識できるかもしれません。そういう認識のもとでは、恐怖とは無縁の希望に満ち溢れた人生観をもって生きられるのかもしれません。

 

僕も40代。ずっとこれまで自分が全て、自分が一番大事、自分が世界の王者だ、という心を大事にしてきました。それ自体は悪いことではないと思いますが、僕も本当にイイ歳なので、死の準備というわけでもないですが、そういった他者視点での人生観も自分の中にきちんと確立していかなければなぁと思います。

 

今日はこの辺で、ではまた。

 

 

ワイン雑感

年末年始と言えば、おせちとお酒。おせち料理にはまぁビールや日本酒が定番なんでしょうけど、おせちなどとは無縁の独り身としては「飲みたい酒を飲む」、これに尽きます。

 

僕はビールが一番好きではありますが、ワインも好きです。醸造酒はちびちび飲めるのが良いですね。静かに本を読みながら一人で部屋でやるのにぴったりです。

 

ワインというと、種類が本当にいっぱいあって圧倒されてしまうし、どれが美味しくてどれがお買い得でどれがまずくて、みたいなことが本当に分かりにくい。そこで僕は6,7年前、ワインの入門書を読むことにしました。3冊ほど読めば、ブドウの品種やワインの銘柄、産地、国によって存在するある程度の傾向(ただフランスだけは例外でフランスの中での産地でカテゴリ分けした方が良い)など、基本的な知識を身に着けることが出来ます。将棋で言うと駒の動かし方を覚えて、基本的な戦法を試してみるような段階まできた、という感じでしょうか。

 

それでワインの試飲イベント(参加費7000~8000円くらいの飲み放題イベントが定期的に都内で開催されてたりします。でもコロナ後は減ってしまったんだろうか)に何回か行ったりした時期がありました。それは半年ほどの「マイブーム」で、少し熱が冷めてからはあまりワインを積極的に飲まなくなってしまいました。

 

最近になって、近所にある(友達がオススメという)ワインショップに行き、一本6000円ほどのバルバレスコというイタリアンワインを買って一人で部屋で飲んだのがきっかけで、またワインを少し飲むようになりました。バルバレスコというのは分かりやすく言うと、「松坂牛」みたいな産地とブランドを合わせたような意味の言葉で、生産者(ワイナリー)は一つではないですが一定の味と品質を提供するワインの種類というかブランドを指しています。

 

そのバルバレスコが、本当に美味しかった。ワインに少しハマった6,7年前には味わえなかった感動を覚えました。よくワインの評価テキストで「ブーケ」という香りを指す言葉があるのですが、そのバルバレスコは芳醇なブーケ香がありました。

 

香りの定番と言えば、人類がみな大好きな「バニラ」というのがあるでしょう。バニラ香は僕も大好きです。近年では工業化学の発達により、バニラ香は9割がた人工香料として実現されていて、天然のバニラは非常に高価な香料となっているそうですが、それは余談でしたね、閑話休題

 

ワインにおける「ブーケ」にはバニラとはまた違った華やかさがあると思います。ブドウの果汁を樽で数年熟成させただけでそういう香りが立ち上ることは本当に自然の驚異としかいいようがありません。

 

自分の今の味覚からすると1万円未満のワイン(というかそれより高いワインを飲んだことが無いので数千円台のワインまでしか分からないのではあるが)において、価格決定要素となるのは、「香り」「ボディ」「渋み・甘み」という3要素です。バルバレスコはまだ2本しか飲んだことありませんが、とにかく香りがすごく良い。

 

「香り」が良いワインは、ワインそれ自体を愉しむのに適していると思います。つまみはなしでもいいし、ちょっとしたチーズやオリーブでもいい。個人的には「ミニトマト」がカロリー少なくてヘルシーでかつワインにあうのでオススメだったりもします。

 

「ボディ」は、本当にワイン通の人でしたらつまみ無しでワインだけを愉しむときにボディを感じることが出来るのかもしれませんが、個人的な楽しみ方としてはボディがしっかりしてるワインは料理とのマリアージュを色々と試すのがいいと思ってます。料理といってもレストランのような大層なものでなくても、それこそ冷凍食品のグラタンでもいいし、ちょっとしたチーズや生ハムとかでもいいし、肉や魚のソテーやグリルをスーパーマーケットで買ってくるのでも全然満足感があります。ボディは、マリアージュしたときに「ふくらむ」のです。ボディがしっかりしたワインほど、料理と合わせたときにその真価を発揮するのだと思います。

 

「渋み・甘み」は、これはワインの品質を左右する要素というよりは、個人の好みとのマッチングにおいて重要な要素だと思います。一般には、渋み・タンニンがしっかり効いたワインのほうが甘味の強いワインよりも高価な傾向にあると思います(一つ例外はあって、白ワインの王様である貴腐ワインについては甘味をある程度価格的に評価したものが多いとは思います)。

 

現時点(2022年末)の自分の好みとしては、香りの優れたイタリアンワインが好きです(チリやカリフォルニアのワインも3000円未満のものは数本試してみてはいるものの、まだ自分には良さがあまり理解できないです)。サイゼリヤのグラスやデカンタを注文すると出てくる「マグナムワイン」も、かなりコスパ良くて美味しいイタリアンワインです。

 

自分の好みで少し偏りがある点としては、ボディよりも香り重視なことです。これは自分がいつも夕食をちゃんと食べず夜はお酒メインであるためにマリアージュをそんなに重視していないことに起因すると思っています。ワインそれ自体で満足感を最大化するためにはボディよりも香りのほうが重要になってくるというわけです。フランスワインで本当に香りのよいものを飲もうとしたら、ボトル8000円以上は軽く行ってしまいそうな気がします。イタリアンワインなら、5000円未満でも香りが本当に良いワインがいっぱいあると思います。

 

と、ここまで書いて、チリやカリフォルニアの新世界ワインでコスパ良くブーケが立ちつつタンニンもそこそこ効いた5000円未満のワインがあったら飲んでみたい、と思いました。来年は新世界ワインを自分なりに開拓してコスパ良く満足感の高い銘柄を見つけるという趣味をやってみようかしら。

 

そんな感じで、唐突な終わり方ではありますが、ワインについての雑感を書いてみました。

 

ではまた。

2023年にやりたいこと

2022年も年の瀬ですね。

今日は個人的に来年(仕事以外で)やりたいことをリストアップしてみます。

 

深センに旅行する

世界で一番進歩の速い場所ではないかと思う。その空気だけでも吸ってみたい。

 

・1日バーのマスターをやる

キッチンカーを何台も自作してる友達に協力してもらい(すでに約束はしてある)、どこかのスペースを借りてやる。イベントを色々企画してお客さんを楽しませたい。イベントの内容は例えば、利き酒や利きチョコレート、目隠しして手に持った物体が何かを当てるゲーム、男性/女性の顔と声の対応を当てるゲーム、激辛たこ焼きロシアンルーレット、等々。屋外になると思うので、温かく風も少ないゴールデンウィークあたりが目安。

 

・エレクトーン7級レベルの曲の演奏をマスターする

今のレベルから一つジャンプしたようなレベルが7級なのでそのレベルの曲をしっかり弾けるくらいまで上達したい。

 

NHKのど自慢に出場する

抽選にあたるか問題はあるが、多少旅行も含めて全国の開催地でいけそうな回を狙って応募。カラオケでいっぱい歌って練習する。 

 

ハーフマラソン完走

春にどこか10キロマラソンのイベントに参加して、ジムでトレーニングして秋くらいにハーフマラソンという運びで行きたい。今のところジムではエアロバイクと筋トレを60分したあとにランニングマシンで約8km/hで30分(約4km)走る計90分のトレーニングを週2ペースでやってるけどハーフマラソン完走するにはちょっと足りない気もする。年明けから徐々に負荷を少しずつ上げていきたい。

 

・週一以上のペースでブログを書く

普通に生活してる中からネタを考えてコラムやエッセイを書いても良いのだけど、美術展にいったり旅行したり本を読んだりという「自分の外との関わり」によって得られる「自分の中との共鳴」を文章に書き起こすような内容を来年は志向したい。

 

数学書を1か月1冊以上のペースで読む

恐らく本リストでこれが一番大変なのだけど一番充実感と達成感が得られるものなのでちゃんとやっていきたい。2023年の終わりに振り返ったとき、他がイマイチでもこれだけは結構できたといえるように一番メインにエネルギーを注ぐ。

 

・平日の夜はしっかり本を読む

これだけやりたいことがあると、積読本の消化は平日メインでやらなければならない。お酒は飲んでもいいから飲みながらでもちゃんと本を読む。

 

・月に1本以上のペースで小説を書く

今年は小説を書くのにチャレンジしたものの、なかなか上手く筆が進まなかった。下手でもいいから書いて小説投稿サイトで公開するってのをちゃんとやる。

 

・月に1曲以上のペースで作曲する

オリジナルの楽曲1ダースくらい作ってライブをやるのが夢なので、最初は下手でもいいからどんどん曲を作る。エレクトーンを習い始めたのも半分は作曲のためなのだし。

 

無意味な相槌の重要性 ~それは能の起源なのか~

昨日、ひょんな機会から会社関係の3人(Sさん、Rさん、私)でランチをした。仕事のMTGではなく、ざっくばらんな雑談会みたいな場だったのだけど、僕にとっては濃密な時間だった。

 

同僚のRさんはエンジニアではなく戦略立案やコミュニケーションのほうが本領という役職の人で、ランチ会でも会話をすごくリードしてくれた。Rさん自身はそんなに凄く意識してリードしてるという感じでもなかったみたいだけど。

 

で、そのRさんの会話のリードの仕方というのが自分にとって「新しい発見」につながったというのが本記事の主題。

Rさんは、会話の途中途中で「そうですよね~」とか「うん、がんばりましょう!」とか「たのしみですね~」といった相槌を(少なくとも僕よりは)頻繁に発する。僕はRさんと話すのは今回が初めてではなかったけど、これまでもその相槌について気に留めることもなかった。

 

でも、その昨日のランチ会は僕にとって「凄く濃密で長い時間」に感じられたのだ。1時間の予定で3人で集まったのだけど、(そろそろ1時間かな?)と僕が自分の腕時計をそっとチェックしても全然まだ時間が残ってるというのが2,3回くらいあった。もちろん、会話が途切れたら気まずいとかそういう関係性でもないのだけど、なんとなく途切れずに3人で話が続いていた。

 

僕は、自分が会話をリードしようという意識にあるとき、会話が途切れそうな内容になったり、あるいは実際に途切れてだれも言葉を発しなくなったりしたとき、それまでの話の流れを大きく変えすぎないいい感じの方向転換とか「ふくらませ」になりそうな題材とか質問とかを投げて場をいい感じに盛り上がるようにする、というのが常套手段だ。ちょっと難しくいうと「有意味に次ぐ有意味」みたいなスタンスが僕のやり方なのだ。

 

でもRさんの会話のつなげ方はそれとは違った。自分が主体的に話題を投下することで場の温度をキープするのではなく、「それ自体は無意味ともいえる相槌」を発することによって、他の人が次の発言をしやすい空気を維持するのだ。

 

身近な喩えで言うと、テレビコマーシャルみたいな感じだろうか。番組と番組の間が完全に無音だったとしたら、他のチャンネルに変えてしまうだろう。でもコマーシャルは確かにスポンサーの都合で作られた映像と音が流れているにしても、そこには「視聴者の温度をキープする力」があるように思う。だから面白くない番組をダラダラとみて、さらに面白くもないCMが流れてきたとしても、チャンネルを変えずに惰性でそのまま見続けてしまうことがすくなくないのだろう。

 

僕は「無言」を回避するために「僕が何か話題を出す」というスタンスであるが、Rさんはいわば「無音」を回避することで「他の人が言葉を発しやすい温度を保っている」ように感じたのだ。

 

(ちなみに、この僕の考えたことを社内コミュニケーションツールで書いたら、Rさんから笑い交じりの「そうかもね」的な返事をもらった)

 

会話において無言と無音の違いを僕はこれまで意識したことがなかった。「意味」と「無意味」だけを考えたら、「それほど意味のない相槌」が会話において非常に重要な役割を果たしていることには気づきにくい。僕が相槌を打つときは必ず「本当にそう思ったときに、同意の気持ちを伝える意図」で「そうですよねぇ」とかいう言葉を発する。

 

極端な話「無意味が嫌い」とまで思って生きてきた。でも「無意味」だけど「音が有る」状態というのがどうやら凄く重要みたいだぞ、と昨日思ったのだ。

 

それで、ようやく本記事のタイトルに関連づくのだけど「能という伝統芸術」を観てみたくなった。おそらく「音がある」という状態を芸術に昇華させた文化なのではないか?と、今回のRさんの会話のスタイルをみてふと思ったからだ。

 

かなり何年も前、能を趣味で演舞する知り合いに、「能の良さ」について聞いたことがある。それによると「能」は、その場に居合わせるだけで、インスピレーションが湧き、新しいアイディアを思いついたり、恐怖をやわらげたりという効果があるのだそうだ。

 

血みどろの戦国時代に武将たちがこぞって能を鑑賞したのもうなずける。明日の戦で自分は死ぬかもしれない、その瀬戸際の時に能に触れることでインスピレーションを高め、恐怖を和らげ、ベストな状態で戦闘に臨む、そういう機能を能が果たしていたのだろう。

 

Rさんの相槌の打ち方は「能の起源」のようなものなのではないかという気付きを得た昨日のことは、僕はずっと忘れないだろう。

 

(理系にこそ伝えたい)思想とは何か

人工知能の進歩が目覚ましいですね。とくに最近発表されたChatGPT、ホント凄いですよね。

人間にしか出来ないと思われていたようなことが次々と人工知能によって実現されていくのを目の当たりにして、今、そして、この先の技術的な進歩が、我々をどのような社会へ導いていくのか期待と不安が入り混じる今日この頃であります。

人工知能の個々の研究成果それ自体は、科学技術的に実現された100%の再現性のある客観的ファクトですが、そのファクトを見て「何を思うか」は人それぞれでしょう。未来に不安を感じる人もいれば、ワクワクする人もいる。そして少数の天才たちは、それらを「作りだす側」つまり「技術開発の担い手」として大いなる希望のもとに仕事に取り組んでいることでしょう。

ここで本記事の主題を提示しましょう。それは、理系人間が陥りがちな思考パターン、すなわち、「人それぞれなこと」に関する解像度の低さについて、です。

人工知能の進歩は、確かにすごい。それらをひとつづつキャッチアップし、「今技術がどこまで進んでいるのか」について敏感であることは重要なことである、と。このことについては、理系人間の多くが賛同することでしょう。

しかし、それらの技術進歩のファクトをみて、個々の人々が何を感じ、どう解釈したかについては、「人それぞれなのだから、そこに何か人類の知的な成果物などは期待できない」と思ってはいないでしょうか?

このことは、非常に、本当に非常に重要なことなのです。私は大学では理系の学問を専攻しましたし、理系の知識の重要性についてはしっかりと理解しているつもりです。その自分のバックグラウンドをふまえてもなお、人文哲学における知が理系の知と同等かそれ以上に重要であることについて、同輩である理系諸兄に対して強く訴えざるを得ないという気持ちがあります。

「人それぞれ」なことについて、「知」を見出しうるのだ、という諒解こそがまず人文哲学における知の価値を理系人間が認める第一歩です。

例えば、ここに二つの意見があったとしましょう。

(意見1)人工知能は、いずれ意識を持つ

(意見2)人工知能は、決して意識を持ち得ない

この2つの意見のうち、いずれが「妥当」すなわち「真実に近い」かを「現時点」で議論することに「意義」を感じるでしょうか?

そういう問いを立てると、理系人間の多くはこう答えるのではないでしょうか?

そんな未来のことを現時点で考える意味はない。手を動かし実現できたことがすべてだ。机上の空論などする暇があったら手を動かせ、論文を書け

と。

しかし、人文哲学の分野ではそうした考え方は「知の怠慢」と考えます。理系が信じる「自然科学の方法論」は、実験や観察に基づく実証的で客観的な事実を専ら人類の知の根拠として採用するという方法論です。この態度は、人類が本来持ってるはずの知を、万人に共有しうる物理的で客観的なもののみにしか適用しない、ことを意味します。

本来、人間は実験や観察に依らずとも「神」とか「宇宙」といった観念的な世界に対しても考察を及ぼさせることが出来ます。神というと、「それは宗教じゃないか。人類の知などとは程遠いものだ。」というツッコミがあるかもしれませんが、人文哲学における知は宗教とは大いに異なるのです。

宗教における「神」は、(その当該)宗教の中では「疑う余地のない真理」として「教義」による正当性が強制されます。しかし、人文哲学における「神」は、「いつでもその存在について疑問をさしはさむ余地を許す存在」なのです。そこが宗教との決定的な違いです。

人それぞれ、神についての見方や考え方はことなります。だから神について自然科学的に研究することは出来ません。自然科学とは万人にとって疑いようのないファクトだけに依拠して組み立てる知の方法論ですから。

しかし、そうした人によって考え方が異なる「神」という概念にさえ、いくつかの考え方を提起することが出来ます。簡単な例で言えば、神は唯一の存在であるという一神論と、神は至る所に遍在するという八百万の多神論。人間の知を使って、この2つの間にどのくらい「真理性」があるかを「吟味」することが出来ます。

そして、例えばイスラム圏の人たちにとっては「一神論」の正当性を支持する根拠が示され、それが多神教の文化圏の人々にとっても「受け入れ可能な知」でもあったりするわけです。

だから、科学を信奉し、それ以外の知を「蓄積性のない思慮」と一蹴するような「理系にありがちな態度」は非常にもったいないと思うのです。


科学の世界では「理論」という言葉が良く使われます。理論という言葉には、それが正しいか否かが(例えいまは技術的に不可能であっても原理的にはいずれ)実験や観察によって万人共通のファクトして示されうる、というニュアンスが含まれています。

この科学における理論という対に相当するのが、哲学における「思想」です。個々の思想は、万人共通のファクトということにはなりませんが、ある一定数の、それはマジョリティかもしれないし、マイノリティかもしれない、あるいは一定の条件に当てはまる人間の集団かもしれない、そうした「ある人々にとっての真理性」が蓋然的であるような知ということになります。

これは、科学における理論の重要性と同等あるいはそれ以上に人類が蓄積し後世に受け継いでいくべき価値のあるものだと考えられないでしょうか。

思想は確かに「人それぞれ」です。しかし、それでもなお人類の知としての価値を確かにもっているのだという立場に立つこと、これが同胞としての理系諸兄に私が強く訴えたいことなのです。

どうか、人工知能の技術的進歩のファクトだけに目を向けないでください。それをどう解釈し、現在と未来をどう考えるかという哲学、そして思想にも目を向け、その知を我らが理系同胞たちの手によっても深めていくような、そういう世界を一緒に作ることに賛同していただきたいのです。

 

カラオケにハマった

これを書いてるのはお天気の良い日曜日の昼前。今朝も1人でカラオケに行って来た。

 

きっかけ

カラオケにハマりだしたきっかけは、今の会社での生活に慣れてきて気分を変えたいなと考えてた時にふと思いついた「平日の朝、出勤前にカラオケに行く」というアイディアを試しにやってみたことだった。案の定、とびっきりの楽しさを味わうことが出来た。

 

それで頻繁に通いだして約3週間が経つ。カラオケ屋の会員アプリを確認すると、この21日の間に13回通ったようだ。約62%、我ながらすごい。*1

 

モチベーション

カラオケに行くモチベーションは純粋な「歌う愉しみ」を味わうというのもあるけど、自分なりに練習することで「ちょっとずつ上手くなっていく実感」があるのがまた楽しい。

 

始めて最初の週は、とにかく腹式呼吸と発声練習を意識して、棒読みでもいいから声をちゃんと出すようにした。大きな声を出すと、自分の声の音域の中心付近では音程が安定するが、音域のボーダーギリギリの所では音程が外れやすい。声を出しつつ音程を外さないようにする練習は、なんだか射撃訓練のようでもある。ちょっと変な喩えになってしまったが要は、音が撃ち落としたいターゲット、喉のコントロールが銃器のようなイメージである。

 

発声と筋トレとたんぱく補給

そこで一つ発見したのは、自分の声の音域の境界ギリギリ付近においては、発声を控えて息を多く吐き出すようにするとちゃんとその音が出せるという点だった。いわゆる「囁くように歌う」ことで低音・高音ともに広い音域を出すことができる。だから、少し無理目な曲をわざと選んで、囁き声の調子で練習したりもした。

 

そうすると、面白いことに何日か経つと実際に音域が少し広がってきたりもした。音域が拡がることは嬉しいことでもあるが、あまりやりすぎると喉を傷めつけてコンディションが戻るのに時間が掛かってしまうという経験もした。

 

声を出す部分も、我々人間の「動物としての身体の一部」であるから、それは筋肉である。したがって「筋トレ」と一緒だ。だから継続的に鍛えることである程度の適応が見られるはずだ。短期間にそれをやりすぎるとかえって身体を傷めてしまうのも筋トレと一緒だ。そして、筋トレをするからには「たんぱく質」の補給も重要だろう。僕はジムに通い、プロテインは飲まないけど納豆を1日2~3パック、豆乳を一日300~500mlくらい飲む生活をしているので、その習慣の中にカラオケによる発声練習が組み込まれるのはとても合理的だと思っている。

 

楽譜通り歌うことの重要性

また、もう一つ最近発見したことがある。それは、歌における「形式の重要性」だ。それは言い換えると「リズム感と音程をちゃんと守る」ことが「情感を込めて歌う」ことよりも相対的に重要度が高いということである。要は歌は「楽譜通り歌ってナンボ」だということだ。

 

プロのボーカリストの歌を聴くと、とても上手に情感やテクニックを入れて歌うので、それをついつい自分でも真似したくなってしまうが、生半可に真似だけするとかえってダサい歌い方になってしまうのだ。素人にとっては、あくまでも音程とリズム感という「楽譜が指示する形式の中で最大限に工夫」することが重要であって、楽譜を外すような歌い方は非常に難しい。

 

そして、プロでも例えば桑田佳祐さんの歌い方をよくよく聴いてみると、独特の節回しやトーンを使いつつもリズムや音程はちゃんと「楽譜通りに」歌っていることに気づく。彼は形式の中でめっちゃ工夫してるのだ。竹内まりやさんもそうだし、幾田りらさんだってそうなのだ。

 

楽譜を外すとはどういうことか

と、ここまで考えると、じゃあ美空ひばりさんの「川の流れのように」はどうなのだ?という疑問が湧いてくるのは自然なことかもしれない。僕もその点を疑問に思った。美空ひばりさんは楽譜通り歌ってないのに、なぜあれほど美しい歌が歌えるのだろう?、と。それについて自分なりに考えたことを以下で述べてみよう。

 

それは、美空ひばりさんは「楽譜通り歌おうとしている」という考え方だ。(美空ひばりさんと自分を比較するのは厚顔無恥の至りではあるが)自分も楽譜通り歌おうとして気を付けながら歌っていても、込めている情感によってときどき楽譜を外してしまうことがある。そして、そういうときの「外し」は自分で録音したものを後で聞いてみても「きれい」なのだ。

 

最初から楽譜を外そうとして外す歌い方はなんだかあざとくいやらしく聞こえてしまうのだが、そうではなく、ちゃんと楽譜通り歌おうとして自然に外れてしまう時の感じはそういうマイナス面を感じさせずむしろプラスに聴こえるのだ。美空ひばりさんは幼少期から始まっていた長年の歌手生活の中で歌を極めていった結果、そういう「自然な外し」が体に染みついていて、楽譜通り歌おうとするだけでもあれだけの美しい「外し」の入った歌い方ができているのかもしれない。

 

歌の成立条件としての「形式性」

さて、楽譜通り、というのは上の方でも述べたがそれは「形式を守る」と言い換えることが出来るだろう。「歌」といえば和歌や短歌という文学ジャンルにも「歌」という漢字が充てられているが、和歌や短歌は57577の文字数という「形式」がある。日本語の「歌」という概念には形式性の所在が暗に含まれているのだ。それは一見とても不思議なことのように感じられる。

 

しかし、この点をよく考えてみると面白いことに気づく。そもそも歌とは何であったか。僕が思うに、歌とは「本来は専ら本人だけに帰されるべき個々人の感情を、公共の場で披露し共有する営み」である。感情それ自体は生々しいものであり、そのままでは公の場で開陳することが単なる「恥さらし」になってしまう。

 

感情に服を着せてやる

そこで、「感情に服を着せてやる」必要があるのだ。大通りを裸で歩く人が居ないように、公の場で自分の生の感情を他人にそのまま見せるケースは少ない。つまり、何かドラマティックな出来事が既にその場にいる聴衆と共有出来ているケースに限られる。人の心は普段はバラバラであり、そのベクトルがある感情の方向へそろっているときにだけ、生の感情のままで受け入れられるのだ。

 

だから、「ふだん」は感情は生のままで届けることは出来ず、「形式」で包んであげる必要がある。それが感情に服を着せてやるということの意味である。今のように音楽が発展していなかった*2平安時代等では和歌や短歌がその役割を担ったのだろう。

 

そんな感じで

カラオケという趣味に興じる中で、ちょっとした上達の実感あり、自分なりの知識の発見もあり、なかなかこのマイブームもいまのところ陰りが見えない状況なので、引き続き楽しんでいきたいと思う。

 

来年はNHKのど自慢に出場したいな。うん、割とマジで。

 

ではまた。

*1:僕の通ってるカラオケ屋さんは朝は特に料金が安いのだが、それは平日でも休日でも変わらず、平日は90分、休日は120分いつも歌っている。

*2:今のポピュラーミュージックのルーツは西洋のモーツアルトなど近代以降に成立した音楽である