数学力と国語力と「稼ぎ」の関係

数理資本主義の時代?

経済産業省のこのページのpdfを興味深く拝見しました

www.meti.go.jp

 

要するにこの報告書は、日本の(対外的な)経済競争力を維持・向上させるために高い数学力をもった人材の拡充の必要性を訴えたものだ。

 

日本という国レベルでみると確かにそうだろうけど、個人のレベルでみると数学を勉強することで年収がアップしたり条件の良い企業に転職できたりするものだろうか?

 

本記事は、総論として先に要約しておくと、数学の素養には

  • (A)問題を厳密に定式化する技術としての数学(直接的な素養)
  • (B)物事を一般化したり論理を構築する方法としての数学(間接的な素養)

という2つの側面があるが、上の経済産業省の資料ではその2つを「どちらも重要」として優劣をつけていないが、

  • (A)はグローバル競争の中で活躍する人材にとって特に必要(短期的にも長期的にも重要)な素養だが、万人にとって必ずしも重要とは限らない
  • (B)は確かに誰にとっても重要だけど、短期的には不要あるいはコスパが悪く、長期目線でコツコツやって初めて意味を持つ大変な素養である

なので、個人レベルでは自身の置かれた立場と考える時間軸によって優劣をつけて考えるべきである、という内容になる。

では、以下ではその各論を述べる。

 

数学よりも国語じゃないの!?

まず私が個人的に思うのは、上の経済産業省の資料にあるような「数学力」が収入等に直結してくるのは「グローバル企業」の社員、すなわちグローバルに競争している企業(ベンチャー含む)やそうした人材に限られる、ということだ。

 

日本の企業に勤めるサラリーマンの大半(主観的な見積もりとしては、9割以上)にとって、同一労働に対する賃金は世界レベルでみて非常に高く設定されており、もし本気で数学を学んでグローバル競争の世界に身を移そうとしたならば、通常は収入や待遇はむしろ圧倒的に低下するのではないだろうか?

  

私自身はそうしたグローバル競争にさらされた企業に勤めた経験がないため、自分の数学的な素養が仕事で生かされて収入が増えたり待遇がよくなったりといった経験はほぼゼロである。むしろ仕事に直結したのは国語であった。

 

社会人として働く中で、コミュニケーションは非常にボトルネックとなりやすいポイントで、一緒に仕事をしていても経験や価値観の異なるもの同士が協働しているために、情報を正確に過不足なく共有することは非常に重要となる。その際に、数学よりも国語が重要である。

 

相手が知っていそうなことに喩えて説明することでスムーズに情報を伝えたり、話の流れの中で相手と自分の認識の差に気づいて早めに前提条件の合意を形成するよう立ち止まって確認したり、といったことが効率的に業務を進める上で重要である。

 

それでも、数学を学ぶことによって鍛錬されるイメージとか論理的な処理能力とかが業務上の課題を解く際に間接的に生かされるのではないか、といったことも「数学を学ぶ意義」としてよく言われる。しかし、それは少なくとも短期の目線では「その目的にとっては数学はオーバースペック」ではないかと個人的には思う。

  

技術職の専門知識を支える土台としての数学力

(グローバル競争にさらされているとは限らない国内のふつうの)技術職にとってはどうだろう?例えば電気工事士とかにとっての数学力については、どう考えたらよいだろう?

 

業務上で必要な専門知識について考えると、大半は高校レベルまでの数学で十分対応できることが多いし、特別に大学レベルの数学が必要とされるような(例えば電気エンジニアにとっての回路理論とか)が業務上必須になるようなものについては、大学でその分野を専攻していれば真っ先にカリキュラムに組み込まれていて最低限それを習得しないとそもそもその学部を卒業できないようになっている。

 

つまり理系として大学を卒業した時点で仕事で使う専門知識を学ぶ上でどうしても必要となるようなレベルの数学については十分学べており、仮にさらに高度な数学がどうしても必要となるような先端の業務に従事するような場合、業務時間を使って給料をもらいながらそれを習得することが十分に正当化されるケースがほとんどである。すなわち、専門技術を扱う企業といえども、その多くの業務が、そのような数学力を持たない人材を前提として組み立てられて経営されている

 

グローバル競争にさらされた業務でない限り、高度な数学力を最初から備えているかどうかが個人レベルでの稼ぎを左右するわけではないのだ。

 

経済産業省の求める数学力」 vs 「『社会の仕組み』的な思考力」

上記の経済産業省の資料で書かれているような数学力とは、グローバル競争にさらされた技術人材にとって必要とされるような高いレベルの数学力のことを指しており、それが現時点では個人の自主的な勉強にゆだねられていることを問題視している。それゆえ、行政官によって作成された資料の中でそれが行政上の課題として提起されている。

 

数学の理論はいずれも一分の隙もないよう精密に組み立てられており、それを正確に理解するには普通はじっくりと時間をかけて議論の1ステップずつを吟味したり概念について自分の考えを巡らせたりする必要があるものだ。その見返りとして得られるのは「他人がだれであろうとも、正しく組み立ててあることが保証された論理」である。つまり、ある意味で他者という存在への依存性を排除することが数学が持つ本質的な性質である。

 

それに対して、新聞の論説文を読んだり、知識人の書いたコラム等の文章を読んで自分の意見との対比を考えたり思考を深めたりといった国語的な鍛錬では他者の想定が論理構造に本質的に組み込まれている

 つまりAIに自動で仕事をさせるといういわば「業務の無人化」を考えるレベルで初めて数学が本質的に重要になるのであって、人が直接業務にかかわっている限り大切なのは国語だということである。

 

そしてその業務の無人化というカテゴリでさえ、数学力よりも単にプログラミング力、あるいはもっと抽象的に「システムについて考える能力」によって解決できる場合もすごく多い。

それは高度な数学力によってというより、むしろ様々な「社会の仕組み」を知っていて、それをシステムの上に上手に模倣できることによって直接的に問題が解かれる、ということのほうが圧倒的に多い。そうした「社会の仕組み」を知るうえで重要なのは数学力よりもむしろ国語力である。

 

数学を学ぶことは「長期的」な視点で初めて意義を持つ

では経済産業省のような国策・行政をわきにおいて、一人の職業人として数学を学ぶことはどんな意義があるのだろうか? 

 

それは、5年とか、あるいはもっと10年とか、そういう長期の目線で効いてくるものなのではないかと思う。

 

国語力は考えを他人に共有する技術なだけであって、問題の中身がなければそれは仕入れた情報のコピーを横流しするスキルに過ぎない。

中身は、経験(仕事だけでなくプライベートでも例えば旅行とか友人や家族とのかかわりとか)や、教養や趣味、思索や自問自答による自分の思想によってもたらされる。

 

そのような「中身」の問題について考えたとき、数学は(それと個人的には哲学も)は劇的な影響をもたらすものだと思う。もちろん、数学に限らず、物理学あるいは音楽やダンス、スポーツや芸術、なんでもそうかもしれないが、数学の特殊性として

 

「流行とかに左右されにくい」「やっただけ積みあがる」「やっただけ世界が広がる」「お金があまりかからない」

 

という点があげられる。つまり「長期的に取り組むテーマ」としては数学は非常に優秀なテーマだ。

 

そういうわけで

国策として数学力が重要という点は分かるけど、それって一握りの人向けだよね、僕を含む多くの人にとって数学はそんなすぐに稼ぎに直結するような類の素養じゃないよね、それでも長期的に考えるとやっぱり数学は人生に「中身」を与えてくれる良いテーマだよね、という話でした。