ゲルハルト・リヒター展に行ってみた

こないだの土曜日、東京国立近代美術館で開催中のゲルハルト・リヒター展に行ってみました。

 

皇居周辺は美しい

日差しギラギラの汗ダラダラになりつつ生まれて初めて訪れた国立近代美術館は、コンクリートの角張った造形で典型的な近代建築といった趣の建物でした。あたりを見回すと、皇居の周りのお堀とそこに生える緑の木々や草花が遠くのほうまで続いていて、それが林立する高層ビルの中でも不思議と違和感なく調和していてとても綺麗なところでした。

 

ゲルハルトリヒターという画家のことは、この展示会を知るまでは知りませんでした。僕は美術展に行くのは好きだけど、美術にはあまり詳しくはありません。それでも十分に楽しめました。

 

以下、美術館の中で自分がどんなことを考えながら絵を鑑賞したのかを(美術史や美術評論などの文脈をふまえず好き勝手に)書いてみます。(全く金にもならない貧乏な趣味ですが、こういうのが好きなのよ俺は)

 

ビルケナウ

まず入ってすぐの展示室には、ビルケナウと題された一連の大きな抽象画のシリーズがありました。それらはナチスドイツのアウシュビッツ収容所をイメージして描かれた作品とのことで、色調は確かに収容所の無機質なモノクロのイメージとその周辺の手入れの行き届かない生え散らかした草木の緑のイメージ、そして何よりもそこで人命がぞんざいに扱われたことを示唆する赤=血の色でした。

 

構図も抽象画として破綻しないように色や形が配置されていて、アウシュビッツ収容所というお題はありつつも美術性を兼ねた作画を重視してることが伝わってきます。

 

しかしこの絵は画家が空間と時間をどう認識してどう表現しようとしたかがすごく難しいです。キャンバスのいくつかは境界線を示唆するように赤や緑といった彩色の線が引かれていて、それが時空間の切り替えであるかのようにその境界の内外で印象が変わります。

 

記憶と個人差、逆説的な写実性

僕はこの最初の「ビルケナウ」の展示室を出たあとに見た絵をふまえて、改めてビルケナウについて考えて初めて気づいたのですが、この画家は視覚における主観的な「記憶」や「個人差」を作画において盛り込むことをかなり重視しているようです。普段我々が夢を見るとき、空間や時間がぐっちゃぐちゃになりながら一つの印象としてギリギリ破綻せずに夢の中の「体験」が得られるのと同様、ビルケナウはそうした時空間と記憶・個人差といった視覚の全体を包摂しようとする意志を感じます。

 

また、これも後の展示室にある作品を見て気づいたことなのですが、リヒターは同じような作品を複数並べる、つまりシリーズ物をたくさん作っているようですが、その理由として背後に「モチーフを指定するとき、それを直接描かないほうが写実的である」という思想があるように思います。

 

記憶や個人差というものを含めてモチーフを描こうとした場合、絵を見る人にそのモチーフをどれだけ正確に伝えられるかは画家にとって大きなチャレンジです。言葉遊びにおける「伝言ゲーム」では言葉が人を伝っていくうちに変形していくところに面白みがあったりしますが、1枚の絵画に込められたモチーフを伝えるゲームにおいては言葉(一つの語)と比べても1回の伝達難易度が非常に高いです。絵には言葉と違って「辞書」のようなものがありません。

 

この画家の有名な作品に、Blur(ブラー・ぼかし)を入れた写真のような作品がありますが、実際にその作品を目にすると写真よりも写実的に見えて、しかもそれが近くで見るとちゃんと油絵として描かれていて、絵画において見る人の個人差を考慮にいれようとした結果「ぼかし」を入れることで写実的な伝達性が高まるという面白さを感じます。

 

言葉と絵の違い

知らない言葉に出会ったとき我々は辞書を引いてその言葉の意味を知ろうとします。そこに書かれている「説明」は、既に知っている言葉を使って紡がれています。しかも、その「説明」はいろんな角度からなされることによって、よりその「知らない言葉」の意味が鮮明になっていきます。

 

それと同じようなことをゲルハルトリヒターという画家はやっているように感じました。画家は、自分の中にある世界で自分しか持っていないモチーフを、絵画で表現しようとし、画家の記憶、絵を見る人の記憶、絵を見る人の個人差などを越えてモチーフをどこまで伝えうるのかをシリーズ作品を使ってモチーフを「説明」しようと試みたように思います。

 

ゲルハルトリヒターの抽象画は、ハケのような独自に作った道具を使ってキャンバスを掃いたり引っ搔いたりしながら割と偶然性を援用する形で描かれたものが多いです。その表現方法がこの画家の独自に生み出したものであり、かつかなりの年月を掛けてその表現方法から生み出される独自のモチーフを追求していたようです。

 

モチーフを相対化する

それとは逆に、この画家は具体的な「意味」を人間なら自然に持つような対象について、その意味を棄却して「もし人間という『常識バイアス』を持った存在がいなかったら世界はどのように映るのか」といったことを、なんと人の顔や身体や人工物に対して描こうとしていたりもするのです。

 

つまり、「表現技法から創発的に持ち上がるモチーフを伝える」というテーマと、「もともと人間が見ればそこに自然に存在するモチーフを棄却した表現」というテーマの、いわば両極端をそれぞれ画家は追及していたのだといえるでしょう。

 

ビルケナウについて再び考える

そう考えると冒頭の「ビルケナウ」がこの画家にとっての一つの集大成であると評価することが出来そうです。つまり、アウシュビッツ収容所という「お題」は世界中の多くの人が「感情を伴って」知る大きなモチーフでありながら、それをこの画家が独自に生み出した表現技法を使って「常識的モチーフ」を棄却しながら表現から持ち上がる「創発的モチーフ」のほうを描く、といったチャレンジをしているというわけなのですから。

 

これはなかなかすごいことです。そういったあたりがゲルハルトリヒターという画家の独自性なのではないか、という勝手な解釈に自己満足しつつ美術館を後にしたのでした。

 

ではまた。