カラオケにハマった

これを書いてるのはお天気の良い日曜日の昼前。今朝も1人でカラオケに行って来た。

 

きっかけ

カラオケにハマりだしたきっかけは、今の会社での生活に慣れてきて気分を変えたいなと考えてた時にふと思いついた「平日の朝、出勤前にカラオケに行く」というアイディアを試しにやってみたことだった。案の定、とびっきりの楽しさを味わうことが出来た。

 

それで頻繁に通いだして約3週間が経つ。カラオケ屋の会員アプリを確認すると、この21日の間に13回通ったようだ。約62%、我ながらすごい。*1

 

モチベーション

カラオケに行くモチベーションは純粋な「歌う愉しみ」を味わうというのもあるけど、自分なりに練習することで「ちょっとずつ上手くなっていく実感」があるのがまた楽しい。

 

始めて最初の週は、とにかく腹式呼吸と発声練習を意識して、棒読みでもいいから声をちゃんと出すようにした。大きな声を出すと、自分の声の音域の中心付近では音程が安定するが、音域のボーダーギリギリの所では音程が外れやすい。声を出しつつ音程を外さないようにする練習は、なんだか射撃訓練のようでもある。ちょっと変な喩えになってしまったが要は、音が撃ち落としたいターゲット、喉のコントロールが銃器のようなイメージである。

 

発声と筋トレとたんぱく補給

そこで一つ発見したのは、自分の声の音域の境界ギリギリ付近においては、発声を控えて息を多く吐き出すようにするとちゃんとその音が出せるという点だった。いわゆる「囁くように歌う」ことで低音・高音ともに広い音域を出すことができる。だから、少し無理目な曲をわざと選んで、囁き声の調子で練習したりもした。

 

そうすると、面白いことに何日か経つと実際に音域が少し広がってきたりもした。音域が拡がることは嬉しいことでもあるが、あまりやりすぎると喉を傷めつけてコンディションが戻るのに時間が掛かってしまうという経験もした。

 

声を出す部分も、我々人間の「動物としての身体の一部」であるから、それは筋肉である。したがって「筋トレ」と一緒だ。だから継続的に鍛えることである程度の適応が見られるはずだ。短期間にそれをやりすぎるとかえって身体を傷めてしまうのも筋トレと一緒だ。そして、筋トレをするからには「たんぱく質」の補給も重要だろう。僕はジムに通い、プロテインは飲まないけど納豆を1日2~3パック、豆乳を一日300~500mlくらい飲む生活をしているので、その習慣の中にカラオケによる発声練習が組み込まれるのはとても合理的だと思っている。

 

楽譜通り歌うことの重要性

また、もう一つ最近発見したことがある。それは、歌における「形式の重要性」だ。それは言い換えると「リズム感と音程をちゃんと守る」ことが「情感を込めて歌う」ことよりも相対的に重要度が高いということである。要は歌は「楽譜通り歌ってナンボ」だということだ。

 

プロのボーカリストの歌を聴くと、とても上手に情感やテクニックを入れて歌うので、それをついつい自分でも真似したくなってしまうが、生半可に真似だけするとかえってダサい歌い方になってしまうのだ。素人にとっては、あくまでも音程とリズム感という「楽譜が指示する形式の中で最大限に工夫」することが重要であって、楽譜を外すような歌い方は非常に難しい。

 

そして、プロでも例えば桑田佳祐さんの歌い方をよくよく聴いてみると、独特の節回しやトーンを使いつつもリズムや音程はちゃんと「楽譜通りに」歌っていることに気づく。彼は形式の中でめっちゃ工夫してるのだ。竹内まりやさんもそうだし、幾田りらさんだってそうなのだ。

 

楽譜を外すとはどういうことか

と、ここまで考えると、じゃあ美空ひばりさんの「川の流れのように」はどうなのだ?という疑問が湧いてくるのは自然なことかもしれない。僕もその点を疑問に思った。美空ひばりさんは楽譜通り歌ってないのに、なぜあれほど美しい歌が歌えるのだろう?、と。それについて自分なりに考えたことを以下で述べてみよう。

 

それは、美空ひばりさんは「楽譜通り歌おうとしている」という考え方だ。(美空ひばりさんと自分を比較するのは厚顔無恥の至りではあるが)自分も楽譜通り歌おうとして気を付けながら歌っていても、込めている情感によってときどき楽譜を外してしまうことがある。そして、そういうときの「外し」は自分で録音したものを後で聞いてみても「きれい」なのだ。

 

最初から楽譜を外そうとして外す歌い方はなんだかあざとくいやらしく聞こえてしまうのだが、そうではなく、ちゃんと楽譜通り歌おうとして自然に外れてしまう時の感じはそういうマイナス面を感じさせずむしろプラスに聴こえるのだ。美空ひばりさんは幼少期から始まっていた長年の歌手生活の中で歌を極めていった結果、そういう「自然な外し」が体に染みついていて、楽譜通り歌おうとするだけでもあれだけの美しい「外し」の入った歌い方ができているのかもしれない。

 

歌の成立条件としての「形式性」

さて、楽譜通り、というのは上の方でも述べたがそれは「形式を守る」と言い換えることが出来るだろう。「歌」といえば和歌や短歌という文学ジャンルにも「歌」という漢字が充てられているが、和歌や短歌は57577の文字数という「形式」がある。日本語の「歌」という概念には形式性の所在が暗に含まれているのだ。それは一見とても不思議なことのように感じられる。

 

しかし、この点をよく考えてみると面白いことに気づく。そもそも歌とは何であったか。僕が思うに、歌とは「本来は専ら本人だけに帰されるべき個々人の感情を、公共の場で披露し共有する営み」である。感情それ自体は生々しいものであり、そのままでは公の場で開陳することが単なる「恥さらし」になってしまう。

 

感情に服を着せてやる

そこで、「感情に服を着せてやる」必要があるのだ。大通りを裸で歩く人が居ないように、公の場で自分の生の感情を他人にそのまま見せるケースは少ない。つまり、何かドラマティックな出来事が既にその場にいる聴衆と共有出来ているケースに限られる。人の心は普段はバラバラであり、そのベクトルがある感情の方向へそろっているときにだけ、生の感情のままで受け入れられるのだ。

 

だから、「ふだん」は感情は生のままで届けることは出来ず、「形式」で包んであげる必要がある。それが感情に服を着せてやるということの意味である。今のように音楽が発展していなかった*2平安時代等では和歌や短歌がその役割を担ったのだろう。

 

そんな感じで

カラオケという趣味に興じる中で、ちょっとした上達の実感あり、自分なりの知識の発見もあり、なかなかこのマイブームもいまのところ陰りが見えない状況なので、引き続き楽しんでいきたいと思う。

 

来年はNHKのど自慢に出場したいな。うん、割とマジで。

 

ではまた。

*1:僕の通ってるカラオケ屋さんは朝は特に料金が安いのだが、それは平日でも休日でも変わらず、平日は90分、休日は120分いつも歌っている。

*2:今のポピュラーミュージックのルーツは西洋のモーツアルトなど近代以降に成立した音楽である