マティス展に行ってきた ~なぜ切り絵に至ったのか~

GPTの考察記事執筆、遅れに遅れちゃってますが、また少し脱線。

 

ゴールデンウィーク中、上野にある東京都美術館で開催されているマティス展を観に行ってきました。

 

マティスという画家のことは、名前だけ聞いたことがあって「切り絵の人だっけ?」というくらいの程度。*1

 

僕が美術展に行くのはほぼ専ら、巨匠ひとりをメインテーマに据える展示会のときばかりです。最近だと岡本太郎展ゲルハルトリヒター展がまさにそれで、それらの「ハズレが無い」感じがとても好き。*2

 

今回は、感銘を受けたテーマをいくつか書き並べていく形にしてみます。

 

絵画と輪郭

展示スペースに入ってまず目を惹かれたのはクッキリと黒ぶちの輪郭が多くの絵に描かれていることでした。

 

我々人間が、普段生活のなかで眼を通して周囲の環境や物を「視る」とき、輪郭というものは意識しません。そんなものは存在さえしていません。しかし視るのではなく絵を「描く」ときになると、なぜか輪郭なるものが描き手の意識に立ち上ってきます。

 

これはとても面白いことです。

 

小さな子供が絵をかくときも、まず輪郭から描き始めることが多いでしょう。そのくらい、絵画にとって輪郭というのは本質的なものだと言えます。幼児のその段階において、既に絵画制作は写実性の追求とは方向を異にすることが見て取れると言えます。

 

しかし僕は、今回マティスの絵をじっくり見るまで、「子供が輪郭を描くのは絵が下手だからだ」と思っていました。あるいは漫画やアニメのように「モチーフをデフォルメする表現が相応しいメディアに特有のテイストだ」と思っていました。

 

しかし、マティスは輪郭をハッキリとクッキリと描いていました。「それが絵画だから」と言わんばかりに。大人の画家が、人生を掛けて制作する作品に、本気で輪郭を描いていた。そして、マティスの絵をみていると、輪郭にも色んな役割が存在することが分かってきます。

 

  • 同系色の並びでオブジェクトの境目があいまいになりそうなとき、マティスはそこに輪郭を描きます。
  • モチーフを鑑賞者にどう印象付けるかをコントロールするため、例えばオブジェクトの前景と背景を際立たせるため、輪郭の太さを場所によって変える
  • 例え色彩的に補色の関係にある境界線上にも、輪郭を描くときがある(ひとつながりの輪郭によって切り取られるオブジェクトの主題性を強調したい場合)

マティスの絵を見るときの一つの楽しみ方として、そこに描かれた輪郭の部分部分に注目し、なぜそれがそう描かれてるのかを想像してみるというのは大いにアリだと思います。

 

モチーフではなく表現手段の追求

マティスという画家は、絵画とは何か?を深く考えた画家だったのだと思います。

 

例えば、印象派絵画の時代を代表するクロード・モネという巨匠がいますが、モネは絵画そのものというよりは光をどう捉えるかというモチーフのほうに大きな動機を感じさせます。

 

しかし、マティスの絵は何かモチーフを追求するというよりは、絵画とは何なのか。絵で何かを表現するとはどういうことなのか。そこにどんな可能性があって、その可能性の中で自分は何が出来るのか。そういったことをひたすら考えながら絵を描き続けたことが伺えます。点描画のようなものもあるし、キュビズムっぽい絵もあるし、抽象画に近づくような方向性も色濃い(特に後述する切り絵)。二次元では飽きたらず、3次元すなわち造形(粘土彫刻)作品も多数遺しています。

 

そして、それぞれの表現手段の要素、すなわち色や装飾(例えば模様とか)、形態といった要素を組み合わせることで絵画が制作されていくわけですが、その際に組み合わせ方によってそれぞれの要素の意味が変わるということをかなり模索しているように見える作品がとても多いです。ちょっと飛躍した言い方をすると絵の文法を模索していたのかもしれません。

 

例えば、部屋の中を描いた絵において、絨毯の装飾とテーブルの色の対比が、その絵全体の緊張度を支配するという組み合わせの効果をテーマとした作品がいくつもあります。

 

また、ゆったりとソファーに腰かけた貴婦人の姿を描くときに、表情をギリギリまで省略したり、着てる服の丸みや厚みを限りなくシンプルにしたり、そうした表現の冗長性を削ぎ落とすことで、もともと表現したかったその貴婦人が画家の視覚に与える情報を過不足なく表現しようと試みている絵があったりします。

 

画家の中にある主観的な動機を忠実に絵画に表そうとするその姿勢は、写実的モチーフから離れようとした先の印象派に通ずるものがありますが、その発展の方向性がキュビズム的な理性的なモチーフ化とは全く違っていて、フォービズム(野獣派)と呼ばれているそうです。

 

アンリ・マティスはそのフォービズムの代表画家と見なされているのだそうです。

 

フォービズムと切り絵

フォービズムの特徴の一つは、赤や黄色や青といった「色の3原色」がガンガン使われていることではないかと思います。

 

そうした原色はそれが文字通り「原」色であるゆえに、同じ赤でも赤を使う場所やそれを囲む輪郭や周囲に描かれた装飾や全体の構図などによって「その絵画に特有の意味を持った赤」が表現されることになります。これは、赤ではない何か別の色を使うことでは表現が出来ません。

 

原色は繰り返し我々の視覚の中で経験する色であるため、非常に主観性が強いです。原色から離れるほど、相対的に客観性が強まるともいえるかもしれません。例えば、エメラルドグリーンという色は「3原色」からは少し遠いですが、それはエメラルドのように珍しい宝石を象徴する色であり、我々の日常的な意識の中で常に経験する色というには希少すぎます。だから、青や緑と比べるとエメラルドグリーンはより客観性を帯びています。こうしたことが、フォービズムにおいて3原色が多用される理由ではないかと思います。

 

さて、色についてはその3原色が持つ多義性を追求するというテーマがあるわけですが、形態についてはどうでしょうか?

 

丸みを帯びた曲線、まっすぐ引かれた線、それらの太さ細さ。それは輪郭として絵の中で背景からオブジェクトを切り出します。完全に写実的な世界では輪郭は存在しないのでした。いや存在しないというより「写実的とは、輪郭がとても複雑だということだ」と言った方がより適切かもしれません。したがって、輪郭とはなんらかの形態をデフォルメして単純化することで絵画の中でオブジェクトの視認性を強めることで前景化する機能をもった絵画表現要素だと言えましょう。

 

そうすると、輪郭を描くことの本質とは「表現したい情報を過不足なく伝えるのにちょうどいい複雑度(単純度)を持った形態」を表現することであると言えるでしょう。

 

ここまで来ると、フォービズムから切り絵までの絵画思想がひとつながりのものとして理解できます。*3

 

切り絵にすることで、輪郭と配色と装飾性とを同時に模索することが出来ます。ここまでくると、マティス独自芸術の宇宙とも言えそうです。マティスの切り絵作品は単純にインテリアとしても大変魅力があります。芸術的な試みが極まって、我々の日常生活になじむ魅力的なアート作品が展開されるまでに至ったことは、幸運な偶然のいたずらともいえるかもしれません。

 

というわけで

マティスの絵やフォービズムに対する素朴な見方、それと、どうして切り絵なのか?に対する自分なりの解釈を書いてみました。

 

ではまた!(GPTシリーズ必ず書きますのでお待ちを…)

*1:それでもこの展示会に行こうと思ったのは、今年の2月に所用で銀座SIXの蔦屋書店に行ったときに偶然開催されたた美術書の在庫セール(?)でふと目にしたマティスの画集に感銘を受けて、興味を持ったからでした。

*2:今回のマティス展も大満足でした。美術展って入場料2000円くらいとそれなりのお値段するので、モトをとるにはじっくり味わう必要がある

*3:これは私個人の素人の独自解釈です。もしかしたら似たような話がどこかの美術書に書いてあるのかもしれませんが、そうでなくてもそれなりにつじつまのあった話だと思います。美術館の中でマティスの絵を見ながら、切り絵に至った理由を自分なりに考えた結果を本ブログで書いているという次第です。