「数学」は何をやってるのか
最近考えたことを書いてみる。
数学って難しいよね
大学レベルの数学を学んでいると、色んな新しい概念の定義が出てきて、それに付随する主張が並んでいて、そこから知識を得るという趣味的な愉しみはあるものの、
「そもそもこれは一体何をやってるんだろう?」
「ゴールはなんなのだろう?」
「ってか数学の目標って何?」
という気分になることが少なくない。
他の学問、例えば、物理学だったら、「自然界の物理的な事象を(数式をはじめとする、人間に理解可能な模型を使って)説明する」のようなゴールを割とはっきり感じられる。 工学だったら有用な人工物を作るための仕組みを見出すことがゴールだし、医学なら人間の心身とくに肉体的な健康を保つ/疾病状態から回復するというゴールがある。
もちろん数学にも、「数学的な方法論で用いることの出来るツールを整備する」という目的感はあるけど、「じゃあそのツールを使って何をするの?」とも思う。
そんなモヤモヤをずっと抱えてきたのだけど、最近、数学とは関係ないこの本を読んでいて「あっ!」と思った。
これは「生物分類学」の一般向けの啓蒙書なのだけど、この学問の方法論が凄く数学と似てるのだ。
分類体系を作るという「学問」
どこが似てるかというと
- 新しいものを発見する
- 発見したものに対して「既存の体系」と照らし合わせる
- 既存体系から外れるものについて新たな分類軸を打ち立てる
- より包括的で説明力/弁別力の良い軸があると分類軸が置き換わる
という点だ。
では、「生物分類学」という学問の「目的」は何だろう?
それは、知識を体系化することだ…。
。。。
えっと、なんだか議論が振出しに戻って堂々巡りな話をしてしまってるようだが…ちゃんと言い換えると、
「『手段の整備』そのこと自体」を目的とする学問にも「実学的な感じ」が結構ある
ということに気づいたのだ。
というかそれは、僕ら人間がみんな日常的にやっていることの延長にあるのだ。
例えば、街で赤の他人とすれ違う時、男性か女性か、子供か大人か、若いか中年か老齢か、といったことを瞬時に認識する。
もし、(そんなことあり得ないが)男性・女性という性別概念を人類がもっていなかったら、そうした認識さえも持てないのだ。
そして、これがとても重要なことだが、例えば男性・女性という区別ですら人工的な概念にすぎないのだ。 自然界の生物のメカニズムとして性差なるものが存在するのだとしても、そうなっているのだとしても、それを存在として認め、その差によって区別する、すなわち、それを分類軸として採用するのは、それが人間の認識にとって都合が良いからなのだ。
「道具」と「対象」の区別を意識する
数学の話に戻そう。
群だの環だの加群だの、多様体だの、数学の本を紐解けばどんどんと概念が出てくるんだけど、それらはみんな「対象を分類して理解するための軸」に過ぎない。
大学レベルの数学は自分にとって難しいので、そうした概念が出てくるとどうしても「その概念自体が調べる対象」であるかのように思ってしまう。
これがこれまで自分にとって大きなワナになっていたように感じる。
それは例えば、ノコギリという道具を初めてみたときに、ギザギザで切れる部分や、握って掴む柄の部分に意識が向いてしまい、「それが木を切る道具だ」ということを忘れてしまうことに似ている。そんな見方をしていたら、ノコギリはひどく難しいものに見えてしまうだろう。
やっかいなことに、数学の概念は、ノコギリがもつ「木を切るという目的」のような目的が、ハッキリと特定されてないことが多い。 群や環や加群のような概念は「汎用的な道具」なので、初学者にはことさら特定の目的をパッと認識しづらい。 さらに、その道具さえも調べる対象になってたりして(数学の「研究」というのはそういうものだ)、教科書もそういうノリで書かれているのも厄介なことだ。
だが最近得た(上述の)「気づき」によって、「いま読んでいる話において、何が対象で、何が道具になってるか?」をかなり意識するようになった。その結果、プラセボかもしれないけどなんとなく、自分にとって少し数学の敷居が下がってくれたように思う。