死と他者性

明けましておめでとうございます。今年も本ブログをよろしくお願いします。

 

で、正月早々縁起でもないタイトルで申し訳ない限りですが、今朝は少しだけ「将来の自分の葬式」について考えたりしてました。

 

小さい頃から「自分のことは自分でやりなさい」って親に良く言われて育ったという人は僕だけじゃないはず。じゃあ「自分の葬式」を「自分でちゃんとやる」にはどうしたら良いのでしょうか?

 

最近は終活という言葉があるとおり、いくら独り身で旅立ったとしても、自分の葬式代くらいは個人資産から出せるくらいのお金を残すのがマナーだろうとは思います。つまり自分の「さよならセレモニー」のスポンサーは自分ですよと、それはいい。

 

でも、そのセレモニーを自分自身では執り行うことはどうしても出来ない。自分のことなのに、自分ではできない。絶対的な他者依存性が、人生の最後の最後に置かれている。

 

さらに良く考えると一つ面白いことに気づきます。出生は必ず母との2者の間で行われる=他者性と物理的に不可分の出来事であるのに、死亡は物理的に自分自身という1者のみで行われる出来事であることです。この非対称性は当たり前なんだけど、凄く興味深いことです。

 

そして葬儀を含めて考えると、この非対称性は消え、対称的になります。すなわち、「始めと終わり」がどちらも他者との関わりを物理的に含むものになります。では、その対称性をもつ始めと終わりをひとつなぎに眺めたら、人の生涯はどのようにみえるのでしょう?

 

(1)最初の自立とは自身の生誕であり、それは母からの分離であり「最初の他者の誕生」でもあります。

 

(2)そして青年期にまで成長する中で社会的な自立を目指します。それはいわば「依存先となる他者の分散化」です。大人になるというのは、多様な価値観を持つ様々な他者との関わり合いのなかで自己を生きることです。

 

(3)そして最後に、自身が死滅します。ここで、自立は究極の形、すなわち「自己の、絶対的な他者への完全な依託」という形をとることになります。

 

つまり、人の生涯を他者性の側から見ると、「1.他者の生誕」「2.他者への依存」「3.他者への依託」という流れがあるわけです。

 

僕はティーンエイジャーから20歳過ぎくらいまで「自分がいつか死ぬ」ということが怖くて悲しくて仕方がありませんでした。いまでも本当に怖いです。でもそれは、自分の生涯を自分自身から見た視点において抱く感情なのかもしれません。

 

生涯を他者視点でみたとき、上で述べた「流れ」をふまえると、それは小さい兆しのようなものがポッと出て少しずつ大きくなりどんどん広がってついにはそれが生まれて自身と一体化するような、そういう流れにあるものと認識できるかもしれません。そういう認識のもとでは、恐怖とは無縁の希望に満ち溢れた人生観をもって生きられるのかもしれません。

 

僕も40代。ずっとこれまで自分が全て、自分が一番大事、自分が世界の王者だ、という心を大事にしてきました。それ自体は悪いことではないと思いますが、僕も本当にイイ歳なので、死の準備というわけでもないですが、そういった他者視点での人生観も自分の中にきちんと確立していかなければなぁと思います。

 

今日はこの辺で、ではまた。