汎用人工知能の観点で「新実存主義」を読んでみた(前編)

本記事は

adventar.org

の 12/10当番分の記事です。

はじめに

ドイツ、ボン大学のM.ガブリエル教授をご存じでしょうか?「哲学界のロックスター」の異名を持ち、現代の気鋭の哲学者と評される氏は、メディアに露出する機会も最近多いです。

そんな彼の著書の中で、岩波新書に邦訳がある「新実存主義」という本を、汎用人工知能の観点で読んでみた私の個人的な感想を書くのが本記事の主題です。

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それと、予めお断りになりますが、私自身は哲学の専門的素養はなく、新書や選書を20~30冊程度読んでいるくらいの、所謂「趣味の哲学徒」です。 もちろん、本記事に対する支持・批判等のツッコミは大歓迎です。

実存主義」とは?

まず大まかに、新実存主義というのがどんな思想なのか、私の理解を述べてみます。

「新」実存主義と銘打ってるので実存主義と関連があります。実存主義というのは、1900年代前半に隆盛を誇った思想で、その時代背景からも推測されるとおり、「全体より自分を生きよう」みたいな思想です。

もうちょっとちゃんと書くなら、国や企業や民族といった広い意味でのコミュニティや、宗教や文化といった、社会を作りあげている要素が我々の間で「真実性」「真理性」について見解を共有する源になっているのだけど、それが「あたりまえ」だと思い込みすぎると個々の人々が望んでない戦争を国同士が起こすことになってしまったり、価値規範の下で社会的な階級が固定されてしまって「差別」が起きたり、もっといえば本当に人間がもっている創造性や多様性をフル発揮できない社会になってしまう、その呪縛から逃れるために個々の人々が生きている「実存」を大事にしよう、という考え方です。

実存と似た言葉に「実在」がありますが、実在はどちらかというと個々の人間の人生から離れて、「社会の側」あるいはもっと広く「自然の側」にあるものを指す言葉です。対して実存という言葉は、人間が持つ感情や価値観といった客観的/物理的な物事に還元できないもののほうを第一に考えるようなニュアンスもあります。

さらに、いまここで私が使った「感情」という言葉さえも、例えば「悲しい気持ち」という言葉には「意味」がありますが、この言葉を発した人間の「本当の悲しさ」が言葉で表現しきれるわけでなく、その人間の人生そのものというのは「言葉よりも先」に存在しているわけです。こうした、言葉に先立つ個々の人間の生に目を向けるのが「実存主義」です。

実存主義は原理的に考えるととても厳しい考え方です。言葉よりも先に、どこかから「人生の考え方・生き方」を借りてくることよりも先に、自分の人生に目を向けるという思想なのですから。

仮にある人が身体だけ大人になってから、何も知らない赤ん坊の状態に戻されて意識だけが継続し、目の前にある「人生の原体験」にさらされ続けるとしたら、とてつもない不安に駆られるでしょう。しかも、その体験してる「現実」すら、その人間が「その現実にするか」を選ぶことが人間には原理的に可能なのです。

「新実在論」とは?

M.ガブリエルは、新実存主義の前に「新実在論」ともいうべき、「実在」という概念にも新しい見方を与えています。彼は「『世界』は存在しない」と言っています。我々は「世界」といった言葉を聞いたとき、何か我々がいま住んでいる「この世の全体」というイメージを思い浮かべますが、そういうものは実際には「存在しない」つまり「実在ではない」と言っています。

もちろんガブリエル教授よりも前にも、こうした「客観的な世界なんてものは無いのだ」といったことを主張した哲学者はたくさんいました。というか、科学者との対比でいうと、哲学者というのはむしろそういう主張の方が「メジャー」かもしれません。では、「新実在論」はそうしたこれまでの哲学者の主張と何が違うのでしょうか?

例えば、ドイツの哲学者カントは客観的な実在はあるかもしれないがそれを完全にとらえきることは人間にはできないのだ、それでも部分的に認識できるのは人間が「悟性」を持っているからだ、そんな「人間の根本的な限界」を踏まえたうえで客観的な実在を正しく認識しようとする「理性」を我々はもっている、みたいな感じのことを主張しました。つまり「世界は実在してるけど、我々には全部みえない」ってことですよね。

またイギリスのヒュームなど17~18世紀のイギリスの経験主義的な思想は、我々の認識する物事は世界の側に始めからそれをそれとして成り立たせてるものが存在してるわけではなく(リンゴがリンゴとして存在してるわけではなく)、我々が経験から「目の前にあるのはリンゴだ」という風に経験則で実在を認識しているのだという見方を徹底したような思想ですが、「世界の側にある、(我々が認識する対象であるところの)実在」を所与としてるようなところがあります。世界があるから、経験できるのだし、経験則で「リンゴ」という概念を持つことが出来る、というわけです。

ライプニッツモナド論に似てる?

でもそうしたら、ガブリエル教授の「世界が実在しない」ということになると、いったい我々は何を経験しているのだ?という疑問が生じてきます。

これについてのガブリエル教授の主張を、実は私はあまり把握してないのですが、似たような考え方としてかつてライプニッツが提唱した「モナド論」というのがあるのでそれを紹介しておきます。

モナド論は、世界の実在性はさておき、個々の人間(動物)が経験する現実というのはまったく独立であり、それにもかかわらず「たまたま」その個々の人間どうしが経験を共有する機会(=チャネル)を持てているだけに過ぎないのだ、という考え方です。そんな「偶然」に依存する世界観だなんて哲学と呼べるのか!とツッコミを入れたくなりますが、モナド論では「そうなのだ、すべては偶然であり、その偶然が世界に『予定調和』的に組み込まれてるゆえに我々は経験を共有できているのだ」と平然と主張します。かなりラディカルな思想ですね(なので、このモナド論というのはあんまり流行してないと思います)。

哲学の歴史には、このモナド論のように「実在の有無以前の問題」とも言えるような思想もあるくらいなので、ガブリエル教授の「新実在論」もこれから色々と思想が補完されて洗練されていくのかもしれません。

で、「新実在論」では「世界は存在しないが、『個々の人間による経験』は存在する」と言っています。これだとちょっとモナド論っぽい主張に思えますが、つづきがあります。それは、「自然物(物理的なモノ)」は存在するし、「個々の人間の感情」とか「個々の人間がおかれた立場や環境によって変わる経験像」も存在する、と言っているのです。

つまり「世界」は実在してないけど、「個々の客観的な実在」はあるし、「個々の主観的な実存」も存在するという話なのです。ここが、ヒュームのような徹底的な経験主義と異なる点だと私は解釈しています。また、「世界という実在は無いけど個々の実在はある」というのは西洋的な1神教の世界から東洋的な多神教八百万の神)の世界への転換、みたいな感じもしますね。

「世界=宇宙」への批判としての「新実存主義

さて、ここまでの話をまとめると「新実在論」というのは、「世界は存在しない」けれども、「物理的なモノ」は存在するし「感情」とか「経験」とか「主観的な印象」といった「精神的なコト」も存在する、という主張なのでした。

そうすると、

「物理的なモノの実在性」=「精神的なコトの実在性」

という主張なのだろうか?

という疑問が浮かんできます。結論からいうと、Yes、です。というか、両者は同じ「実在性のグラデーション」の中で「同じ土俵の上で考えるべき対象」であるというのが新実在論の主張だと思います。物理的なモノと精神的なコトは「実在性のレベル」としては「グラデーションの上で異なるポジション」かもしれないが、「グラデーションは共有されてる」し「その2つを分けるものは何もない」すなわち「同様の実在性を持つ」というのが新実在論のキーポイントです。

この考え方に立つと、面白い疑問が浮かんできます。

「宇宙は存在しているのか?」

です。新実在論は「世界は存在しない」とは言ってますが、「宇宙は存在しない」とは言ってません。これまでの話を踏まえると「宇宙」は実在性を主張できる「物理的なモノ」の範疇にあることは明かでしょう。

でも、普段我々は、「世界」という言葉と「宇宙」という言葉に、けっこう「似たニュアンス」を感じちゃってませんか?普段のたわいのない雑談でも、「世界で一番」という話題が出ると「それは地球で一番なのか?」「それは宇宙で一番なのか?」みたいな話に、屁理屈とは分かっていても結構なったりしますよね?

ガブリエル教授の主張を踏まえるとこれは、科学的なものの見方が、哲学的に言いかえると「極端な自然主義」的なものの見方が、我々一般人の「常識」の中にまで浸透しきっているせいだ、ってことになります。

そこで「新実在論」の延長線上の議論として、「実存」についても新しい視点を持ち込むべきだという話として、「新実存主義」につながってゆきます。

ちょっと脱線: 営利企業に哲学倫理が重要になって来てる理由

余談ですが、ここまで述べたような話を聞くと、「哲学者というのは簡単に思いつきそうなことを主張してスターとか呼ばれちゃって甘い商売だなー」みたいに思わなくもないですが、実際にこれを哲学の世界できちんと主張するためには、これまでの哲学者の主張を全部踏まえて、それらに関連付けたうえで主張の新しさと重要性を述べないといけないので大変な作業です。実際、ガブリエル教授は10か国語くらいをマスターしていて、これまでの主要な哲学者の著書の多くを原典で読み解いたうえで自身の哲学を展開しているため、そう簡単に真似できる作業ではないでしょう。それにも関わらず、ガブリエル教授の主張は我々一般の社会人にとっても「けっこう分かりやすい」のが特長です。そんなこともあって、グーグルをはじめ昨今の企業倫理やガバナンス体制面で哲学・思想の重要性への認識が高まる中で、ガブリエル教授はグローバル大企業の哲学倫理顧問としていま引っ張りだこなのだそうです。

どうして哲学や倫理が営利追及組織の代表格でもあるグローバル資本企業において重要になりつつあるのか?これは簡単にいうと資本主義というのはお金や数字で眼に見えるものを資産・資本として追及する経済原理のため、短期的なバイアスがかかりやすく、50年・100年つづく企業にしてゆきたい大企業にとってそうしたお金や数字で測れない経営方針を見定める際に哲学や倫理を参考にせざるを得ないという事情があります。おっと、この話はまた記事を改めて書きたいと思います。閑話休題

「新実存主義」≒「条件主義」

さて、本記事は汎用人工知能の観点で「新実存主義」を読むという趣向なのでした。この観点でガブリエル教授が「新実存主義」の本の中で述べている重要な考え方があります。それは、「条件主義」というものです。

例えば我々の「感情」について脳科学的に研究するときよく行われるような、被験者の身体に計測装置をつないで脳波や血流といった物理的なデータを観測することにより、被験者の「主観的な経験(コト)」と計測装置の「物理的なデータ(モノ)」を対応づけるような実験は、どのように捉えたらよいだろうか?という問題があります。

この問題に対して「条件主義」は、「この脳科学の実験によって得られる『科学的な対応づけ』は実在の『必要条件』である」と回答するのです。

つまり、脳科学の実験は客観的で重要なデータであるからそれは「踏まえなければならないこと」だけど、それで「人間が経験するコト」を全てとらえきれるわけではないということです。

これは、上述した「モノとコトが同じグラデーションの中にある」という話と関連しています。繰り返しになりますが、我々人間が経験するコト、抱く感情、感じる印象、そうしたものは「物理的なモノ」と同じ土俵の上にあるのだけれども、とはいえ「物理的で客観的なモノ」で全て説明できるわけではなく、物理法則や実験事実は「尊重すべき条件」に過ぎないのだ、というのが「条件主義」なのです。

平たく言うと「科学は実在の必要条件だけど、十分条件ではない」、また別の言葉で言い換えるなら「実存の舞台は、宇宙だけじゃない」ってことです。こう書いてしまうと「実存の舞台」=「世界」のようなニュアンスになってしまうので、あんまり良い表現ではないかもしれませんが、まぁ大体そういうことです。

この「条件主義」は、とても「現代的なバランスのよい思想」だと私は感じます。

これまでの古典的な哲学は、現代の科学の進歩の前に考案されたものが多く、伝統的で権威のある哲学的思想だとしても、そのある一部では現代科学に照らすと疑問視されかねない部分があったりするので、科学的なことを「必要条件として重視する、ただし、科学が全てじゃないから十分条件とは考えない」というこの「条件主義」は科学の進歩のスピードの目まぐるしい現代にありながら、じっくりと哲学的に思想を創り上げる上でふさわしい態度であるように私は思います。

ではこの現代的なバランス感覚を備えた思想である「新実存主義」「条件主義」の観点で、我々が汎用人工知能の未来について抱いてるイメージ、期待、不安といったものはどのように捉えることができるのでしょうか?

次回の記事でその本題に入りたいと思います。

つづきは

記事を分けます。 前置きが長くなり一番の本題が後回しになるのは私のいつもの悪いクセなのですが、、もう少々お待ちを。