デカルトの賞味期限 ~知における矛盾の復権~

今日のエントリは評論文です。

近代社会の思想的基盤である「論理的思考」に潜む大きなワナについて述べます。

 

どんどん複雑化する社会

現代社会では技術発展のスピードが年々加速していっているとよく言われます。私もそう思いますしあなたもそういう実感をお持ちではないかと思います。

 

またその技術革新が起爆剤となってグローバル化も進行し、世界的なサプライチェーンの発展や異文化交流の進展といったポジティブな側面が拡がっています。反面、世界が「近く」なったことによって、二度の世界大戦を経て世界平和を希求するはずだった国際社会は依然としていまだに戦争・紛争が絶えません。技術の進歩によって世界がどんどん「狭く」なっていくことで、社会が複雑化するスピードも加速しているように思われます。

 

プロフェッショナルな職業人

そのため、社会が複雑化すればするほど職業人としてのキャリアや個人の自己陶冶の在り方として、「専門家」や「プロフェッショナル」であること、またそれを目指すことの価値が高まりつづけているというのも、大多数の人が持つ常識的な見解ではないかと思います。分野横断的なスキルや資質が求められるような例えば経営者のような職業でも、「経営のプロ」という言葉が常用されるくらい、「プロフェッショナル」という言葉は「高み」や「強み」と同様のニュアンスを帯びています。複雑化に対応するには専門性が不可欠だという命題が、我々の確固たる信念として常識の中に定着しています。

 

人類が市場経済の仕組みを世界規模で導入したおかげで、我々職業人のプロフェッショナル練度などお構いなしに技術はどんどん進歩し、社会はもっともっと複雑化していきます。それに伴ってさらに多くのプロフェッショナルが必要になり、各職業人に求められる専門性もさらにさらに深くなっていくのでしょう。

 

その構造が抱える危うさ

しかし、この「社会の複雑化」 vs 「プロフェッショナルの高度化・動員増」という構図はどう見ても永続性があるように思いません。近いうちに限界が来るのではないでしょうか?

 

そもそも、なぜ技術が進歩したり社会が複雑化したりすると、必要な「分野ごとの専門性」が増えてしまうのでしょうか?

 

なんでもできるオールラウンダーになることのハードルがこんなにも高く感じられてしまうのはなぜなのでしょうか?

 

ルネ・デカルトあらわる

ルネサンス時代が幕を閉じてすぐ頃のフランスに生まれたルネ・デカルトは近代哲学の父と呼ばれ、経験や主観、祈祷や占星といった現代の我々からみたら「不確かなもの」を学問に組み入れるのをやめ、数学や論理、観察や実験といった「確かなもの」を知の基盤に据えることを要請しました。

 

そこから数学は急速に進歩し、サイエンスやテクノロジーが発展し、そうした合理的な考え方から市場経済が普及していきました。デカルトはヨーロッパをルネサンス時代から近代に至らしめる思想的な礎を作った人だといっても過言ではないでしょう。

 

私たち日本人にとって一番なじみ深いのは、中学生の数学で縦横が碁盤の目のように仕切られた「座標」を使ってグラフを描いたり式を計算したりするあれ、デカルトが考えたものです。「座標」を使うと、グラフのような「絵や図」の世界を、数式の世界と結びつけることができます。

 

例えば図画工作の授業で先生が同じ絵や図を描くように生徒みんなに言っても、手描きしてる限りみんな微妙に形がズレてたりして、ピッタリ先生が出したお手本通りに描く人は殆どいないでしょう。でも、座標はそういうズレをなくします。先生は、絵や図ではなく「座標を使った数式」を生徒に「お手本」として見せれば、生徒たちはその数式をノートに書いてみんなが同じグラフを描くことが出来ます。これが、「不確かなもの」から「確かなもの」への移行の身近な例です。

 

論理学の世界的採用と矛盾の世界的排除

「確かなもの」の究極形が「論理学」です。もちろん、デカルトの時代より前から論理学的な考え方が存在しなかったわけではないでしょうが、それが「知のおおもと」に置かれるようになったのはやはりデカルトの時代からでしょう。

 

論理学の最たる特徴は矛盾という概念が存在することです。論理学では「矛盾からはどんな命題も成立」してしまいます。でも実際の世界はそんな「なんでもアリ」な風には出来ていません。だから矛盾は「なんでもアリを可能にする出発点」ではなく「これ以上考えることが出来ないという終着点」を示すマークと捉えられていることが多いです。

 

したがって我々が「論理」を社会や生活の場において使う時は矛盾が起きないように気を付けますし、もっとシビアな科学や技術の研究開発のような場においては、矛盾は「あってはならないもの」のように積極的に回避されます。

 

しかし、我々は矛盾する感情を持ち、またたとえ個人のレベルで感情や思想に矛盾が無かったとしても人が2人いるだけで2人のそれが全く矛盾してないことなんて考えられません。そして現在、世界には70億人もの人が居るのです。デカルトが考えたのは、そうした矛盾を生じさせる「不確かなもの」を知の基盤から外すことでした。

 

矛盾は分野を隔てる垣根である

「確かなもの」を知の基盤とし、矛盾を回避することで論理的な整合性を持った知の体系を作ろうとすると、先ほど述べたように矛盾とは「思考停止のマーク」なので、「分野」が発生します。物理学、化学(有機化学無機化学・生化学・生命科学)、工学(なんとか工学はいっぱいある)、etc.

 

例えば、栄養学と化学という2つの分野について考えてみましょう。ここにお砂糖がスプーン一杯あったとします。これは大体12キロカロリーくらいあります。栄養学では、1日に必要なカロリーが基準値としてあり、例えば成人男性なら2000キロカロリーです。でもその2000キロカロリーを毎日全部砂糖で摂るというわけにはいきません。そんなことをしたら他の栄養が足りず病気になるだろうしその前に糖尿病で死んでしまうかもしれません。

 

しかし、化学的には2000キロカロリー分の砂糖(スクロース)はちゃんと2000キロカロリーあります。燃やせば(砂糖は燃えます)灰カスになるまでに相応の火が出ますから、毎日お湯を沸かすときに(もったいないですが)砂糖を燃やせばお湯は沸きます。

 

これは同じカロリーでも、化学と栄養学では意味が違うからですよね。栄養学でカロリーといったらどんな栄養のカロリーかが重要なわけです。それなら、カロリーではなく別の言葉を使うというアイディアもあるかもしれません(論理学でも論理計算が途中でストップしないように名前を付け替えるという手法があったりします)が、そうはいってもカロリーという言葉がもつ「エネルギーのもと」という意味は栄養学でも化学でも共通なわけです。

 

このように、矛盾はいわば分野を隔てる垣根として働いています。栄養学と化学の例に限らず、様々な分野が「ことばの違い」によって専門的に分かれていますし、「カロリー」のように同じ言葉を共有する場合は、「分野を分けることによって『意味の違いによる矛盾』が生じないようにしてる」わけです。

 

デカルトの賞味期限

ここまで考えると、本エントリの最初の方で立てた問い「社会の複雑化にプロフェッショナルが挑む」という構造の限界が何に起因しているかは明らかです。そう、矛盾を回避して「確かなもの」を体系化しようとする営みこそが、専門分化の原因です。

 

しかし繰り返しになりますが、現代社会の複雑化のスピードは、最早そうした専門分化されたそれぞれの分野の高度化によって対処することが困難になることが目にみえています。

 

これはつまり、デカルトの賞味期限が近付いているということなのではないでしょうか?

 

矛盾を回避することによって、分野の狭く深く閉じた世界における「専門用語の意味」が「確かなもの」となってはいるものの、その「確かなもの」によって組み立っている知の体系を現代社会の複雑な物事に適用しようとすると範囲をどんどん狭くしていかざるを得ないというわけなのですから。

 

知のランデブー

では我々はどうしたら良いのでしょうか?その答えは、「知における矛盾の復権」ではないかと私は思います。分野を横断し、言葉のあいまいさを許す。専門分化した分野ごとに知を組み立ててみんなでそれを使うのではなく、個々の職業人たちがめいめいで専門性を越えて矛盾を恐れずに知を取り入れ、他者との対話の場においてお互いの言葉の意味をその都度確認しあうことによってコミュニケーションを成立させる、いわば知のランデブーを行うのです。

 

デカルトの時代より150年前に生きたレオナルドダビンチは人類史上驚くべき多才な仕事をした偉人と見なされています。越境の天才などと呼ばれることもあるでしょう。ここで、レオナルドダビンチが活躍したのがデカルトより前の時代だったことは非常に示唆的です。デカルトが賞味期限を迎えようとしている今、そしてこれからの未来に生きる職業人はみんなレオナルドダビンチのように生きるべきなのかもしれません。

 

矛盾を歓迎しましょう。

 

言葉の意味の多重性・多面性を受け入れましょう。

相手によって言葉遣いや思想が矛盾する人を無教養呼ばわりしないようにしましょう。

昨日の自分と今日の自分との間の矛盾を許しましょう。

全く違う分野の人と対話しましょう。

 

知のランデブーをしましょう。