デカルトの賞味期限 ~知における矛盾の復権~

今日のエントリは評論文です。

近代社会の思想的基盤である「論理的思考」に潜む大きなワナについて述べます。

 

どんどん複雑化する社会

現代社会では技術発展のスピードが年々加速していっているとよく言われます。私もそう思いますしあなたもそういう実感をお持ちではないかと思います。

 

またその技術革新が起爆剤となってグローバル化も進行し、世界的なサプライチェーンの発展や異文化交流の進展といったポジティブな側面が拡がっています。反面、世界が「近く」なったことによって、二度の世界大戦を経て世界平和を希求するはずだった国際社会は依然としていまだに戦争・紛争が絶えません。技術の進歩によって世界がどんどん「狭く」なっていくことで、社会が複雑化するスピードも加速しているように思われます。

 

プロフェッショナルな職業人

そのため、社会が複雑化すればするほど職業人としてのキャリアや個人の自己陶冶の在り方として、「専門家」や「プロフェッショナル」であること、またそれを目指すことの価値が高まりつづけているというのも、大多数の人が持つ常識的な見解ではないかと思います。分野横断的なスキルや資質が求められるような例えば経営者のような職業でも、「経営のプロ」という言葉が常用されるくらい、「プロフェッショナル」という言葉は「高み」や「強み」と同様のニュアンスを帯びています。複雑化に対応するには専門性が不可欠だという命題が、我々の確固たる信念として常識の中に定着しています。

 

人類が市場経済の仕組みを世界規模で導入したおかげで、我々職業人のプロフェッショナル練度などお構いなしに技術はどんどん進歩し、社会はもっともっと複雑化していきます。それに伴ってさらに多くのプロフェッショナルが必要になり、各職業人に求められる専門性もさらにさらに深くなっていくのでしょう。

 

その構造が抱える危うさ

しかし、この「社会の複雑化」 vs 「プロフェッショナルの高度化・動員増」という構図はどう見ても永続性があるように思いません。近いうちに限界が来るのではないでしょうか?

 

そもそも、なぜ技術が進歩したり社会が複雑化したりすると、必要な「分野ごとの専門性」が増えてしまうのでしょうか?

 

なんでもできるオールラウンダーになることのハードルがこんなにも高く感じられてしまうのはなぜなのでしょうか?

 

ルネ・デカルトあらわる

ルネサンス時代が幕を閉じてすぐ頃のフランスに生まれたルネ・デカルトは近代哲学の父と呼ばれ、経験や主観、祈祷や占星といった現代の我々からみたら「不確かなもの」を学問に組み入れるのをやめ、数学や論理、観察や実験といった「確かなもの」を知の基盤に据えることを要請しました。

 

そこから数学は急速に進歩し、サイエンスやテクノロジーが発展し、そうした合理的な考え方から市場経済が普及していきました。デカルトはヨーロッパをルネサンス時代から近代に至らしめる思想的な礎を作った人だといっても過言ではないでしょう。

 

私たち日本人にとって一番なじみ深いのは、中学生の数学で縦横が碁盤の目のように仕切られた「座標」を使ってグラフを描いたり式を計算したりするあれ、デカルトが考えたものです。「座標」を使うと、グラフのような「絵や図」の世界を、数式の世界と結びつけることができます。

 

例えば図画工作の授業で先生が同じ絵や図を描くように生徒みんなに言っても、手描きしてる限りみんな微妙に形がズレてたりして、ピッタリ先生が出したお手本通りに描く人は殆どいないでしょう。でも、座標はそういうズレをなくします。先生は、絵や図ではなく「座標を使った数式」を生徒に「お手本」として見せれば、生徒たちはその数式をノートに書いてみんなが同じグラフを描くことが出来ます。これが、「不確かなもの」から「確かなもの」への移行の身近な例です。

 

論理学の世界的採用と矛盾の世界的排除

「確かなもの」の究極形が「論理学」です。もちろん、デカルトの時代より前から論理学的な考え方が存在しなかったわけではないでしょうが、それが「知のおおもと」に置かれるようになったのはやはりデカルトの時代からでしょう。

 

論理学の最たる特徴は矛盾という概念が存在することです。論理学では「矛盾からはどんな命題も成立」してしまいます。でも実際の世界はそんな「なんでもアリ」な風には出来ていません。だから矛盾は「なんでもアリを可能にする出発点」ではなく「これ以上考えることが出来ないという終着点」を示すマークと捉えられていることが多いです。

 

したがって我々が「論理」を社会や生活の場において使う時は矛盾が起きないように気を付けますし、もっとシビアな科学や技術の研究開発のような場においては、矛盾は「あってはならないもの」のように積極的に回避されます。

 

しかし、我々は矛盾する感情を持ち、またたとえ個人のレベルで感情や思想に矛盾が無かったとしても人が2人いるだけで2人のそれが全く矛盾してないことなんて考えられません。そして現在、世界には70億人もの人が居るのです。デカルトが考えたのは、そうした矛盾を生じさせる「不確かなもの」を知の基盤から外すことでした。

 

矛盾は分野を隔てる垣根である

「確かなもの」を知の基盤とし、矛盾を回避することで論理的な整合性を持った知の体系を作ろうとすると、先ほど述べたように矛盾とは「思考停止のマーク」なので、「分野」が発生します。物理学、化学(有機化学無機化学・生化学・生命科学)、工学(なんとか工学はいっぱいある)、etc.

 

例えば、栄養学と化学という2つの分野について考えてみましょう。ここにお砂糖がスプーン一杯あったとします。これは大体12キロカロリーくらいあります。栄養学では、1日に必要なカロリーが基準値としてあり、例えば成人男性なら2000キロカロリーです。でもその2000キロカロリーを毎日全部砂糖で摂るというわけにはいきません。そんなことをしたら他の栄養が足りず病気になるだろうしその前に糖尿病で死んでしまうかもしれません。

 

しかし、化学的には2000キロカロリー分の砂糖(スクロース)はちゃんと2000キロカロリーあります。燃やせば(砂糖は燃えます)灰カスになるまでに相応の火が出ますから、毎日お湯を沸かすときに(もったいないですが)砂糖を燃やせばお湯は沸きます。

 

これは同じカロリーでも、化学と栄養学では意味が違うからですよね。栄養学でカロリーといったらどんな栄養のカロリーかが重要なわけです。それなら、カロリーではなく別の言葉を使うというアイディアもあるかもしれません(論理学でも論理計算が途中でストップしないように名前を付け替えるという手法があったりします)が、そうはいってもカロリーという言葉がもつ「エネルギーのもと」という意味は栄養学でも化学でも共通なわけです。

 

このように、矛盾はいわば分野を隔てる垣根として働いています。栄養学と化学の例に限らず、様々な分野が「ことばの違い」によって専門的に分かれていますし、「カロリー」のように同じ言葉を共有する場合は、「分野を分けることによって『意味の違いによる矛盾』が生じないようにしてる」わけです。

 

デカルトの賞味期限

ここまで考えると、本エントリの最初の方で立てた問い「社会の複雑化にプロフェッショナルが挑む」という構造の限界が何に起因しているかは明らかです。そう、矛盾を回避して「確かなもの」を体系化しようとする営みこそが、専門分化の原因です。

 

しかし繰り返しになりますが、現代社会の複雑化のスピードは、最早そうした専門分化されたそれぞれの分野の高度化によって対処することが困難になることが目にみえています。

 

これはつまり、デカルトの賞味期限が近付いているということなのではないでしょうか?

 

矛盾を回避することによって、分野の狭く深く閉じた世界における「専門用語の意味」が「確かなもの」となってはいるものの、その「確かなもの」によって組み立っている知の体系を現代社会の複雑な物事に適用しようとすると範囲をどんどん狭くしていかざるを得ないというわけなのですから。

 

知のランデブー

では我々はどうしたら良いのでしょうか?その答えは、「知における矛盾の復権」ではないかと私は思います。分野を横断し、言葉のあいまいさを許す。専門分化した分野ごとに知を組み立ててみんなでそれを使うのではなく、個々の職業人たちがめいめいで専門性を越えて矛盾を恐れずに知を取り入れ、他者との対話の場においてお互いの言葉の意味をその都度確認しあうことによってコミュニケーションを成立させる、いわば知のランデブーを行うのです。

 

デカルトの時代より150年前に生きたレオナルドダビンチは人類史上驚くべき多才な仕事をした偉人と見なされています。越境の天才などと呼ばれることもあるでしょう。ここで、レオナルドダビンチが活躍したのがデカルトより前の時代だったことは非常に示唆的です。デカルトが賞味期限を迎えようとしている今、そしてこれからの未来に生きる職業人はみんなレオナルドダビンチのように生きるべきなのかもしれません。

 

矛盾を歓迎しましょう。

 

言葉の意味の多重性・多面性を受け入れましょう。

相手によって言葉遣いや思想が矛盾する人を無教養呼ばわりしないようにしましょう。

昨日の自分と今日の自分との間の矛盾を許しましょう。

全く違う分野の人と対話しましょう。

 

知のランデブーをしましょう。

 

岡本太郎展に行ってきた

今日10/18(火)から東京都美術館で「展覧会 岡本太郎」が開催されています。

 

 

僕はもともと岡本太郎氏のファンというわけではなかったのですが、僕はオードリーの若林正恭さんの大ファンで、若林さんが岡本太郎氏を尊敬しているという話を聞いたのがきっかけで好きになりました。

 

絵画や芸術の世界の巨匠はみなそうかもしれませんが、宇宙の歴史からしたら砂粒の一つにもみたないたった一人の人間の生涯がいかにエネルギーに満ち溢れた大きなものであるかを感じさせてくれるという点で、岡本太郎さんには畏敬の念しかありません。

 

前置きはさておき、展覧会の感想を書きます。今回は特に気になった作品を 3つ 取り上げて、私が感じたことを文章にしてみる、というスタイルにしてみます。

 

重工業

https://obikake.com/wp-content/uploads/2021/03/01-55.jpg

こちらの作品は、なんといってもパッと目につく歯車とネギ!。そして画中に登場する人間を模したオブジェクト。中央には人間の体からほとばしる破裂物が精気か狂気かを想起させます。

 

古来から人間は文明を発展させてきましたが、その端緒は農業でした。自然を征服して農作物を手に入れた人類は、ついには自然に眠る石炭や石油といった大きなエネルギーをも自分たちの手中に収めて利用しようとしています。もたらすものがいずれも自然に由来するという点では、自然からしたらネギも重工業製品も一緒です。

 

でも、我々人間にとってはネギを育てることと重工業産業を営むことの間には大きな隔たりを感じます。工業の発展の中で人間は機械に飲み込まれもするし、一方でそうした大きな機械を設計しうるのも人間のほとばしる英知の賜物といえます。

 

画家が描いたのは、人類の存在を超越した客観的な世界における自然としての生産物の等価性というリアリティ(=歯車もネギも大差ない)と、我々人間たちがその時代のうねりの中で被る悲哀や苦悶、それに対極する科学技術の勝利と未来への期待感、そうした主客を越えた全体感といえるのではないでしょうか。

 

本作品に限らずですが、岡本太郎氏の作品には象徴的な印象やシュールレアリスム的な印象を感じつつも、強いリアリティがあります。本展示会を通して私は、そのリアリティは作品が物理法則や物理的な制約をかなり描いていることに起因すると感じました。

 

特に、重力光の陰影については、かなりシビアに描いているように見えます。航空写真のように上から地図を描くような構図で描かれた作品が全然ないのです。ほぼすべて、横から見た構図で、重力は下に、空中に描かれたオブジェクトは浮いてるか時空間的な中間点を表しているかであることが殆どです。(ただし本記事の後のほうで例外も示します)

 

本作品もその原則に則って鑑賞することが出来ます。モチーフは現実の時空間を超越した観念の世界での全体性を描いているように思われるのに、その"物理的"実在感を否定しえぬように画家から仕向けられてしまっています。

 

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前節で、画家が物理的制約を十分に描いていることがリアリティの主因だという主張をしたばかりですが、本作品はその例外といえそうです。

 

岡本太郎作品は対象物を横からの視点で観る作品が多い中で、本作品は視点が不明です。「赤いテントを切り裂いたときに暗い夜空が拡がっていた」という解釈もできなくはないですが、実際にテントを切り裂いたときに高精度の連射カメラを用いてもこのような画像を写し撮ることは不可能でしょう。

 

確かに全体として、何か布切れのようなテクスチャにも見える統一感はありますが、そうだとするとそれぞれに分割されたパートを拾い観ても、およそ何か一つの平面から切り取られたものとは思えない形態をしています。右下のヘアピン状の形などはもはや固体ですらなく液体のようにも見えます。

 

しかし、背景の暗黒との対比のおかげで、赤い何かがそこに確かに存在することには確信が持てます。一体我々は形態の存在を何を第一起点として認識しうるのでしょう? 背景とのコントラスト? 以前見たことのある形に似ているかどうか? 曲線と直線の部分から演繹的に直観してる?

 

そんな理屈上の仮説のいずれにも帰依しなくても、本作品は形の存在を確信させてくれます。これが赤ではなく青だったらどうか? 緑だったら? もしこれが布という固体ではなく実は液体なのだとしたら?

 

と、画家が実在の形態からの超越を描こうとしたおかげで、我々鑑賞者に無限の自由度がゆだねられているのが本作品の魅力といえるかもしれません。

 

室内

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この作品は本展示会で個人的に一番感銘を受けたものです。これは単純な解釈としては、作者の岡本太郎氏が、メディアの企画か何かでどなたか著名人と対談しているシーンのようにも見えます。

 

本作品のタイトルは「室内」です。でも部屋なんてどこにも見当たりませんよね。部屋を囲う壁もちゃんと描かれてるかどうか、あやしい。小さな部屋で対峙する二人の人間が観念の世界で部屋から飛び出して、お互いの生のエネルギーをぶつけあってるようにも見えます。

 

二人は、何かを語っているでしょうか?語っているとしたら、何を語っているでしょうか? え?そんなのどうでもいいじゃないかって?何を語ってるかなんて野暮なこというなって?

 

そう、そうなんです。この絵の凄いところは、二人が何かを語っているように見えながら、その語りの内容なんてマジでどうでもいいと思ってしまうくらいに二人が大きいという点なのです。室内なのに、まったく部屋に収まりきっていない。それどころか、観念の世界ではキャンバスにすら収まっていないようにすら思える。

 

では、二人は喧嘩しているでしょうか? 私の回答はNo。

では、二人は愛し合っているでしょうか?私の回答はNo。

では、二人は議論しているのでしょうか? 私の回答は「そうかもしれない」。

では、二人はお互いを認め合ってるでしょうか? 私の回答は「わからない」。

 

ただ一つ確信できることは、小さな部屋の中に、大きなエネルギーをもった存在が、そしてそれが人間であるという確かな存在が2つあって、それらが生きて対峙しているという姿があることです。宇宙という存在にもし意識があったなら、強いエネルギーをもった二人の人間の対話は、この絵のように見えるのではないでしょうか。

 

そして、私たちは、この「室内」にいる二人のように大きなエネルギーをもって生きているでしょうか?この二人のように大きなエネルギーをもってお互いに対話しているでしょうか?

 

それを画家から眉間にナイフを突き立てて問われているような、そんな作品だと思いました。

 

というわけで

他にも素敵な作品がたくさん展示されています。絵画だけでなく、彫刻や立体オブジェ、モザイクタイル、数は少ないけど陶器や服飾関係のデザインなど、岡本太郎ファンには垂涎物の名作が目白押しとなっていたので、ぜひ貴方も足を運ばれてはいかがでしょうか。

 

ではまた。

作文書いてみた

先日、このようなツイートを見かけました。

 

確かに、と感じた同意の気持ちとともに、じゃあ何か試しに僕も後で書いてみようと思いました。

 

ってことで以下。

 

私の好きな食べ物

好きな食べ物と訊かれると、寿司、うな丼、ステーキなど日常の食事よりは若干高価なものを思い浮かべる人は多いだろう。私もその一人である。確かにそれらは美味い。しかし、このような質問をする人の意図は何であろう?

好きな食べ物を訊くのはもちろん単なる雑談の1コマに過ぎないかもしれないが、もしその質問の意図が食事の好みを通じて相手の人柄を推し定めようとするものであったならば、通り一遍の答えでは質問者を満足させることは出来ないかもしれない。

 

したがって私はあえて、冒頭に並べたいわゆるご褒美感のあるものではなく、日常口にするメニューのなかで安価に食べるられるものから一つ挙げてみたい。

散々もったいぶってしまったが、私の回答は「納豆巻き」である。

ただ残念なことに、では納豆巻きがなぜ好きなのか?と自問してみたものの「好きだから好き」というトートロジーめいた感想しか出てこないのが正直なところである。じゃあ感情がだめなら理屈で語ろう、ということで以下では自分なりに納豆巻きの3つの魅力について私が考えたことを語ってみようと思う。

 

まず第一に、作り手のスキルに左右されにくいという長所がある。料理の上手な人の作る手作りの納豆巻きは確かにコンビニで気軽に買える(おそらく大部分の調理工程が機械であろう)納豆巻きと比べると若干美味しいかもしれないが、その差は他の料理ほどではない。このことに異論を唱える人は少ないのではないだろうか。

続いて第二に、ヘルシーであることもアピールポイントであろう。納豆すなわち大豆は畑の肉とも呼ばれ、現代人の食生活では理想的とされる低カロリー高たんぱくな食材である。酢飯に含まれる酢も意識していないと摂る機会の少ないヘルシー調味料だと一般にみなされていよう。そして、海苔はミネラル豊富なこれまたヘルシーな食材である。つまり納豆巻きは驚くべきことに、ヘルシーな食材だけを組み合わせて作られたメニューなのである。

最後の第三には、やはり非常に安価であることを強調しておきたい。納豆も、酢飯も、海苔も、どれも非常に安価な食材である。


以上の3つの魅力を総合的にふまえると、納豆巻きは日本が誇るべき最高のメニューの一つと言えるのではなかろうか。納豆が苦手な外国人にとってはハードルが高い料理かもしれないが、それは翻せば我ら日本人の味覚の豊かさを物語っているのかもしれない。

コミュ障は治らないけど生きて行ける

本エントリは、僕の10代~30歳手前くらいまでに直面し対処した(僕にとっては)割と大きな人生の課題についてです。*1

 

小中学生時代から雑談が出来なかった(今でも苦手)

僕は小学校~中学校に掛けて、「自分から話しかける」ことが出来ない人間だった。話しかけて無視されたら怖いし(たぶん傷ついて2週間くらい誰とも話せなくなる)、そもそも話しかけるキッカケすらない。

 

だから、その頃の僕の「友達のできかた」は、もっぱら「何かの拍子に僕に話しかけてくれる親切なやつ」をアリジゴクのように待つ、という感じだった。

 

こういってはなんだが、コミュニケーション能力が壊滅的でありながら僕は「じぶんの『友達づくりのスタンス』がアリジゴク的であること」を自覚できるくらい頭が良かった。それが自己嫌悪に拍車をかけ、ますます「自分から他人に話しかけられない病」が重症化していった。

 

そういうコミュ障男子でも中学生時代になると、まぁ思春期だから当然好きな女子というのが出来る。どんな人かは明らかだろう。「クラスで一番明るくて、だれにでも気さくに話しかけちゃう女の子」である。僕はなぜか勉強だけは出来て、その女の子は僕と同じ学習塾に通っていたこともあり、勉強で分からないことがあると僕によく質問してきた。彼女にとって僕はさしずめ、アッシー君ならぬ、キッキー君であった。

 

高校時代もさして成長せず

高校は地元(埼玉県熊谷市)の公立のいわゆる進学校に通った。コミュ障な男の子にありがちであるように、僕は運動神経がとても悪かった。しかしなぜか筋力だけはあって、中学生の頃に砲丸投げで学年トップ5に入ってクラスで担任の先生が「帰りの会」でみんなの前で僕を褒めてくれたとき、僕は有頂天だった。

 

それで高校生になった僕は、以前から興味があった柔道をやろうと思い、柔道部に入った。柔道はかなり身体の触れ合いが密なスポーツであることもあって、部活の仲間との「ノンバーバルコミュニケーション」を少しずつ経験できるようになった。このときに出来た友達は今でも一生の財産で、この前も一緒に飲み会をしたりした。

 

部活のようなコミュニティに所属すると、自動的に友達が出来るのが素晴らしい。社会人生活を長年続けてきてつくづく思うのだけど、社会人になるとそういう機会や場はなかなかないのだ。柔道部でみんなと苦しい夏合宿をともにした思い出や、僕からは全然話しかけられないのに、気さくに僕に話しかけてくれたおかげで仲良くなれた幾人かの友達には一生分の感謝の思いでいっぱいだ。

 

大学時代=オトナの距離感の予行演習

大学時代になると、仕送りやアルバイトで自活する同級生もいっぱい出てくるし、可処分時間が高校生時代よりも多くなることもあって、「それぞれが持つコミュ力によって交友関係に差が拡がり始める」時期だと思う。

 

なので僕は生来のコミュ力の低さのせいで、あまり大学時代には能動的に交友関係を拡げることは出来なかった。コンピュータプログラミングを中学生時代からやっていたことや将棋を指す趣味を持っていたこともあって、少しだけ「同好の友」が出来たくらいだった。幸いなことに、それで知り合った同級生たちとの交流のおかげで、技術的な知識など社会人になる前の準備期間としての色んなことを知ることが出来た。

 

そのおかげもあって、当時世界一の性能のスーパーコンピュータを作っていた大企業に就職できた。

 

新卒会社員時代:やっぱり受け身(先輩ありがとう)

うまいこと大企業に入れたものの根っこはコミュ障なので、ハッキリ言って仕事はできない。いわゆる「頭はいいけど仕事はそんなにできないタイプ」だ。こう過去形で書いてはいるが、今でも僕は基本的に「頭はいいけど仕事はそんなにできないタイプ」な気もする。

 

でも大企業というのは社員の層が厚く、「仕事が出来て、かつ、気さくな先輩や上司」というのがいる。とりあえず僕はそういう人たちに見捨てられないように自分なりにベストを尽くしたり、遊びに誘われたら断らない(もっとも、コミュ障で友達も彼女もいないため超絶ヒマなので断る理由もない)、などによって首の皮一枚職場の人とコミュニケーションをとることが出来た。

 

しかし、プロとしてお金をもらうようになると、当然ながら自律性が求められる。平たく言えば、「仕事において、自分から話しかけないと仕事が進まないケース」が次々に生じてくるのだ。

 

そうなってようやく、これまで先送りにしてきた課題に向き合わざるを得なくなった。すなわち、「いかにして自分から話しかけ、必要な情報をゲットしたり、他者との関係性を構築して必要な情報が入ってくるチャネルを構築する」スキルを身につけなくてはならなくなったのだ。

 

ちょうどこのころ、何気なくみたテレビ番組のとあるシーンで美輪明宏さんが語った一言が僕の胸に刺さった。

 

正確な内容は覚えてないが、要約すれば以下のようなことを美輪明宏さんは言っていた。

 

感情を爆発させてしまう子は、感情を表現する「ことば」を知らないのです。「ことば」があれば、感情を「ことば」によって表現できるのです。それどころか「ことば」を使って自分と向き合い、自問自答によって感情を処理できるのです。

 

この話を聞いたことは自分にとって大きな転機となった。

 

そうか、僕に足りないのは、他人に話しかける勇気よりも他人に話しかけるときに必要な「ことば」なんだ、と

 

語彙力や国語力が自分に決定的にかけている短所だという自覚はあった(高校時代の僕は理数系が得意で文系科目が壊滅的だった)が、この美輪明宏さんのメッセージが引き金となって人文系の本を意識的にたくさん読むようになり、また知らない単語は必ず辞書で調べて覚えて使いこなせるようにと、自分の国語力の克服に取り組んだ。

 

ちょっとした自慢をいうと、その頃の3~4年間で新書を300冊くらい読んだ。

 

小さな会社数社を経てフリーランス

その後、だんだんと自分の仕事の仕方に自信がついてきて、ちょっと自信が溢れすぎてしまい(20代の若者とはそういうものである)、大企業に嫌気がさして辞めて小さな会社を転々とした。

 

「ことば」の力によって少しずつ自信がついてきたものの、僕は理系のエンジニアなので重要なのは技術力だし、理数系の力を駆使してスーパーコンピュータやロボットといった最先端の技術開発がしたかった。だがそういう仕事に携わることは出来なかった。

 

そんなこんなで、じゃあ独立してやってみようということで、会社を辞めてもがくように色々な人にあい、イベントに参加し、ってのをやってくうちに知人も増えていき、定職に就かなくても生活できる収入を得るという経験もすることが出来た。

 

それでようやく、「自分はコミュ障だけど生きていくうえで必要なレベルには達した」という実感を得ることが出来た。

 

ベンチャー企業の社員として

フリーランス生活を10年ほどしたが、紆余曲折を経て、今自分はベンチャー企業でエンジニアとして働いている。

ズタボロだった小中学生の頃にくらべたら、今僕が「死なないレベルのコミュ力」を持っていることはとてつもない成長である。なので僕は欲が出てきた。生まれながらにして100のスキルを持つ人よりも、生来はゼロなのに60くらいのレベルに自力(?)で達した僕ならレベル1000くらい頑張ればいけるんじゃないかって思い始めちゃったのだ。

 

具体的に言うと、小説を書いて世間の人に「面白い文章だ」と言われたい。国語力・語彙力・文章力・表現力、を磨いて、文学新人賞をとるレベルまで行きたい。文学賞の良いところは年齢不問であることだ。*2

 

この長ったらしいブログ記事をここまで読んでくださったあなたからしたら、ダラダラとしたとりとめのない話で、文才を感じることは無いだろう。

 

でももし、コミュニケーションがうまく取れなくて悩んでいる(僕より若い)人に、この記事が届いて勇気を持ってもらえたら、それは僕にとって何よりの喜びである。

*1:40過ぎにもなると自分の昔話ばっかりするオッサン癖が出てきてよくないっすね。でもまぁとりあえず、ご興味あるかたに読んでもらえれば幸甚なり。

*2:とりあえず年内に1作品は応募せねば

運動生理学とダイエット

ビールの飲みすぎなのだろう、最近おなかが膨らんできてヤバいと思い、ジム(文京区総合体育館トレーニングセンター)に通い始めて1か月ちょっとが経った。体重は2キロほど落ちたような気もするが、±2キロくらいなら身体の水分量で容易に変動しうるので誤差の範囲だろう。

 

運動の習慣が出来たことで運動生理学に興味を持ち、本を読んだりネットで調べたりして、自分なりにダイエット法を考え実践してみている。まだまだ成果が出ているわけではないが、どんなものかちょっと紹介してみようと思う。

 

人体がエネルギーを生み出す仕組み

まず始めに、人間が体内でどのようにエネルギーを作り出しているのかについての大まかなイメージを持っておきたい。これはとても簡単で、「酸素を使って燃料を燃やす」というイメージでたぶん問題ない。

 

車のエンジンはガソリンを燃やすことでエネルギーを生み出しそれを動力に変えるが、それと同様に人間も、体内に蓄えられた燃料を燃やす(とはいえ火がでるわけではないが)ことでエネルギー(正確にはATPという「エネルギーを取り出しやすい物質」)を得る。

 

ここで非常に大事な知識となるのが、燃料には糖と脂肪の2種類があるということ。グリコーゲン(=糖)は燃えやすいが貯蔵しにくく、脂肪は燃えにくいが貯蔵しやすい、という相反する性質を持っている。どちらも酸素と結びつくことでエネルギーを取り出すことが出来る。

 

この働きを担っているのが細胞内に存在するミトコンドリアという物質だ。酸素が血液から運ばれて細胞内に取り込まれると、ミトコンドリアがその酸素を使って糖や脂肪をエネルギーに変換してくれる。

 

糖質代謝と脂質代謝

糖質と脂質はいずれもミトコンドリアで酸素を使ってエネルギー(ATP)に変換されるのだった。しかし糖質は脂質にはない特徴を持っている。

 

それは、糖質は「酸素がなくてもエネルギーを取り出すことができる」という特徴である。

 

酸素を使わずに糖質からエネルギーを取り出すと、ピルビン酸という難しそうな名前の物質が出来て、ミトコンドリアはそのピルビン酸をさらに燃やしてエネルギーを得るという2段構えになっている。

 

酸素が足りなすぎるとピルビン酸を燃やすことが出来ず、乳酸に変えられてしまう。ミトコンドリアはその乳酸も燃やすことが出来るがやはり酸素が足りないと乳酸がどんどん蓄積されていき、身体に痛みを生じさせるようになる(これが肉体疲労の主要因の一つ)。

 

したがって、上のほうでも書いた通り、糖はエネルギーを得やすいが貯蔵しにくい物質なので、使う時はなるべく酸素の行き届く条件で使ってエネルギーを最大限引き出したい。それにそもそもダイエット的には脂肪を燃やしてほしい。

 

そうした事情を鑑みると以下のポイントが重要になってくる。

 

(1)体内に酸素を効率良く供給できること(循環器系・心肺機能の向上)

(2)短時間に大きなエネルギーを使わないこと(グリコーゲンの温存)

 

つまり、心拍数を(無理のない範囲で)上げつつ、運動負荷が低い状態をキープすることで糖に比べて相対的に脂肪の燃焼比率が高まるので効率よいダイエットにつながる。

 

血糖値と脂質代謝

また注意しておきたいのは、血糖値が高い状態では身体が「脂質代謝に制限が掛かり糖代謝が促進される」モードになるという点だ。

 

運動前に(例えばバナナを食べるとかで)糖分を補給すると、血糖値が上がり身体が糖質代謝モードになる。これによって高負荷な運動をスムーズに行えるようにはなるが、それでもし糖を使い果たしてしまうといわゆるスタミナ切れになってしまい、効率よく脂肪を燃焼することが出来なくなってしまう。

 

逆に言うと血糖値が低い状態で運動を始めると、脂質代謝の比率が相対的に高まる。なので、運動で脂肪を燃やしたいすなわちダイエットしたいならば

 

(3)朝起きて朝食取る前や、日中・夜間ならば空腹時に運動するのが良い

 

ということになる。なお、運動を始めてしまうと血糖値による脂質代謝の制限は掛からなくなるそうなので、運動してる間にスタミナ切れ(グリコーゲンの枯渇)を起こしそうなときは糖分補給を行うことで脂質代謝の効率をキープしつつスタミナを補充することが可能だ。

 

レベルアップ運動とレベルキープ運動

(まず最初に断わっておくと、レベルアップ運動やレベルキープ運動というのは私の造語であって、運動生理学の用語ではない。)

 

前節までで、なるべく低負荷で高心拍数の運動がダイエットに良いという考察をしたが、高負荷の運動にも良い面がある。

 

それは、「負荷の高い運動を行うとミトコンドリアが増える」という仕組みだ。

 

負荷の高い運動にはこれまで説明したとおり「あまり身体に貯蔵できないグリコーゲン」を消費してしまうのでダイエット効率は良くないが、それによってミトコンドリアを増やすことが出来、それによって「糖や脂肪を効率良く燃やせる身体」が作れるので長期的にはダイエットにつながる。

 

したがって

(4)グリコーゲンはなるべく高負荷運動のために使いミトコンドリアを増やす

ことを意識することも重要だ。

 

炭水化物や糖分を摂りすぎてしまったときは負荷の高い運動を多めに行って、その糖分を燃やしてミトコンドリアを増やしてしまうと良いだろう。

 

貯蔵可能量を超える糖分は体内で脂肪に変換されて貯蔵されてしまうため、

(4´)体内に糖質が多い状況では高負荷運動の意義がとても大きい

と言える。

 

まとめると、糖質はなるべくレベルアップ運動のために使いたいし、糖分(炭水化物含む)を摂りすぎてしまったときはレベルアップ運動の大チャンスだ。逆に糖分を使い切ってしまってるようなときは高負荷運動を避け、レベルキープ運動によって脂肪を燃やすのがよい。

 

基礎代謝向上 vs 脂肪燃焼体質

ダイエットの考え方として「基礎代謝を上げることで太りにくい身体を作る」というものを時々見かける。

 

しかし運動生理学的には基礎代謝は年齢とともに徐々に低下してゆき、筋トレや運動によってそれを向上させることは出来なくはないがそれは微々たる量に過ぎないのだそうだ。

 

もし基礎代謝を上げることが出来れば「運動してない普通の日常生活の時間にもダイエット効果がある」という理想的な状態になるのだが…。

 

そこで私は同様の効果が得られる方法を考えた。それは、

(5)食事において糖質を減らし、カロリーをなるべく脂肪で摂取する

というものだ。

 

また牛や豚・鶏は飽和脂肪酸が多いため体内に蓄積されやすく、魚肉や植物油・ナッツ類は不飽和脂肪酸が多いため体内に蓄積されにくい、という性質があるので

(5’)牛豚鶏はたんぱく質多めのものを、脂肪は魚肉やナッツ類で摂取する

ことも心掛けたい。

 

注意点として、運動を全くせずに脂肪中心の食生活に変えるだけだと、ミトコンドリアも多くなく糖と脂肪の燃焼比率も普通は糖のほうが消費されやすく6:4くらいなので、日常生活で疲れやすくなったりカロリーは(脂肪で)取ってるのにおなかがすいてしまうということがある。

 

私は以前、運動を全くしてなかったとき、体脂肪率が結構高いにもかかわらず食事を減らすと猛烈におなかがすいてしまうことが不思議でならなかった。「脂肪がついてそこにカロリーが蓄えられてるのだからそれ使えばいいじゃん」って思ったからだ。

 

しかし運動生理学的にはそれは当然なのだ。運動してないのでミトコンドリアの量が少なく、その少ないミトコンドリアをやりくりして主に糖質代謝でエネルギーを生み出そうとする体質なので、脂肪が身体に多く貯蔵されていたとしてもそれを効率よく活用することが出来ない。

 

さらに人間の脳は他の臓器とちがって糖質が無いと働かないという特徴がある。脳の機能が低下すれば自律神経にも支障が出てしまい、身体の代謝コントロールにも影響してさらにエネルギー生成効率が落ちてしまう。そんな状況で身体が糖や炭水化物を欲するのは当然だ。

 

なので、この脂肪中心の食生活は運動の習慣とセットで行う必要がある

 

運動の習慣があって、ミトコンドリアの量も増えてゆけば、身体が糖よりも脂肪をメインに消費する体質になり、体内に脂肪がある限りカロリー(糖質や脂質)をあまりとらずミネラルやビタミンやたんぱく質のみを摂取する食事のみで日常生活を快適に送れるはずである。

 

これは、「筋トレや運動による基礎代謝向上」に期待されることと(内容は違えど)効果はほぼ同等である。(1)~(4)で挙げた運動のやり方と(5)の食生活を組み合わせることで、効率の良いダイエットが期待できるのではないだろうか。

 

というわけで

年内に7キロくらい落としたいですね~。自分で知識を仕入れて考えたことが有効かどうかを確かめるという科学的な興味としても楽しみではあります。

 

さて、どうなるだろう?また数か月後に経過報告を書くかもしれません。

 

ではまた。

 

数式を使わないTransformerの解説(前編)

2023/3/23 追記: こちら半年以上前に執筆したもので、その後私の理解も進んで内容的に更新したいところが結構あるため、近日中に非公開とさせていただき,更新後に再公開させていただくつもりです。現時点での本記事の内容は、大きく間違ってはいないけどちらほら微妙なところがあるという感じです。

(ざっくり理解するだけでも良いという人にはそれでも良いかもしれませんが、そういう方向けには 今執筆中のこちらの記事 をおすすめします。)

 

−−−−

 

最近話題のmidjourneyやDALL-E、凄いですよね。中身はディープラーニング(DNN)のようです。DNNといっても色んな技術がありますが、それらにはTransformerという手法が使われています。本記事は、その手法がどんなものであるかを数式を使わずに説明してみよう、という主旨になります。

 

※なお本記事は機械学習のプロの研究者ではない私の独自の解釈が多く含まれるため、誤りを含む可能性があることをご承知おきください。また私の勤務先企業やその関係会社とは無関係に私が個人的に勉強した「感想」程度に受け止めていただければ幸いです。

 

Transformerとは?

もともとはディープラーニングを用いた機械翻訳の品質を向上させるためにグーグルの研究所によって考案された手法でした。

 

それまでももちろん機械翻訳ディープラーニングが用いられてきましたが、このTransformerの導入によって性能が飛躍的に高まったことから機械翻訳以外の自然言語処理のタスクや、さらに画像、音声と適用領域が広がっているとてもホットな技術です。

 

Transformer以前は、再帰ニューラルネットワーク(RNN)という手法が多く用いられていましたが、これは文を翻訳してくときに単語を一つずつアルゴリズムに食わせていく逐次的なアルゴリズムになっているため、「かなり前の単語の意味が影響するような文脈」を加味するのが苦手という短所がありました。

 

もう少し詳しくいうと、RNNでは単語をインプットするたびに「訳語+内部状態」がアウトプットされて、そのアウトプットをまた次の単語インプットと一緒に使いながら処理を進めることで文脈を考慮した翻訳を実現します。

 

そうすると、凄く前の単語に依存するような文脈の場合、そのことを「内部状態」に埋め込む必要があります。内部状態は逐次的に置き換わって変化していきますから、その変化のあいだ文脈をずっと覚えておくすなわち内部状態に埋め込み続けておく必要があります。内部状態を表すビット数は固定なので、そのような埋め込みを必要とする状況では実質的に情報スペースを逼迫させることになるわけです。

 

そこで考案されたのがTransformerでした。そのカギとなるのがAttention(アテンション)というテクニックです。Attention自体はTransformerが登場する前から良く知られた方法でしたが、これを「文脈情報を表現する仕組みの中心に据えた」ところがブレークスルーになった、と言えるかもしれません。

 

Attentionとは何か

ではそのAttentionの説明に入るわけですが、その前に「我々人間が単語の意味や文脈といった情報をどのように頭の中に埋め込んでいるか」についてちょっと考えてみましょう。そのようなことをいったん考えてみることが、遠回りなようで近道なのです。

 

まず単語について考えましょう。「りんご」を例にとってみます。りんごは食べるものですよね?それに、ふつう、赤いです。あまずっぱい味がします。小さな種がありますね。スーパーで買うことが多いです。大きさは片手で握るほど、形はまぁ丸いといえるでしょう。

 

そうしたことは「りんご」という単語の「字面(じづら)」には全く書いてないですよね。単語の綴りには「り」と「ん」と「ご」しか書いてないです。だから上で描いたようなりんごにまつわる色んな事は我々の頭の中にあるわけです。りんご、という言葉を聞いたとき、我々の頭のなかはちょっとだけ「りんごモード」になります。

 

さて、では続いて「文脈」について考えてみましょう。例えば「スーパーでりんごを」という途中までの文を聴いたとします。この後に続く単語として「買った」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?もちろん「盗んだ」という言葉が続くこともありえます。「食べた」だとちょっと不自然ですよね。「試食した」と正確に書いてほしいところです。もちろんレジでお会計をする前に商品を口にしたという意味なのでしたら、犯罪の香りが漂ってきます。

 

こうしたことが文脈の例として考えられるわけですが、ここで重要となるのが

 

文脈の情報の源泉はすべて単語自体の情報にあるのではないか?

 

という仮説です。例えば、上述したような「りんごにまつわる色々」といった「単語の意味」を512ビットで表すことを考えてみます。512ビットは手元で計算すると10進数では154桁です。人の寿命がだいたい80歳くらいだとするとそれは約25億秒になりますが、これはちょうど10桁ほどですから、1秒に1パターンの意味を経験するとしてもまだ144桁ぶんあります。人類の歴史上の生きたすべての人の人生を合計してもまだ余裕がありそうです。*1

 

そこで、それぞれの単語を512ビットで表現して、それをもとに文脈情報を組み立てることを考えます。そして、文は単語が並んだものですから「単語の位置」は重要になってきます。なので単語の512ビットに加えて、単語の位置を表す情報を付け加えましょう。

 

位置をどう表すかは具体的には次節で解説するとして、これで「単語の意味+位置」(*)が表現できました。そしていよいよ「文脈」をどう表現するかですが、

 

(*)の情報をテキトーに重みづけして足し算するだけ(=それがAttention)

 

で文脈を表せたことにします。「え、そんなんでいいの?」って思ってしまいそうですが、先に述べたように文脈情報の源泉は単語の意味にあるという仮説に基づくならこれも十分試してみる価値のある方法に見えます。実際、それでAttentionというテクニックは良い成果をたたき出してくれるのだそうです。

 

Transformerにおける単語の位置情報の実際

さて、位置情報をどう表現するか考えましょう。

 

文の長さは可変長ですし、また長い文章にわたる文脈や意味を表現したいので、文章の最初の単語からの通し番号を付けるというのが素朴なアイディアとして思いつきます。

ですが単なる通し番号だと、例えば3番とか19887番目で数字の大きさが結構違ってしまって、ディープラーニングは足し算と掛け算と閾値判定で動くのでそういうのは都合が悪いです。

 

そこで文章全体を一つの円の上にぐるっと単語を順番に並べていって半周までしない扇型の孤上に並ぶくらいの感じにします。円周上の座標が単語の位置というわけです。これなら原点からの距離は一定ですし、単語同士の近さ遠さも表現できていい感じです。

 

また、単語の近さ遠さといっても、そのスケールは固定とは限りません。例えば小説であれば主人公が今どこにいるかという「文脈情報」は割と直近の文や単語を見れば分かることが多そうですが、小説のストーリーに関わるような文脈となるとかなり前の単語の情報が必要になってきそうです。

 

そこで、扇型の座標は2次元((x,y)と2つの数で座標を表しますよね)なので、「単語の意味」を表現するのに使った512ビットを256ビットずつ2つに分けて、「文脈が考慮する距離スケール」を256個用意することにします。そうすれば、ストーリーに関わるような長い文脈は512ビットの後ろのほうのビットで表現して、短い文脈は512ビットの前のほうで表現する、っていう風にして必要な文脈スケールをいい感じにカバーしてくれそうです。

 

Transformerの単語の位置情報は、そういう風にして、扇型の長さ(文章全体の地図の縮尺スケール)を256パターン用意して学習させます。

 

ようやくアルゴリズム本体

さて、ここまででようやくAttentionの思惑と実際の表現についての説明が終わりました。TransformerはこのAttentionの表現力をフルに引き出す工夫が盛り込まれています。

 

アルゴリズムの全体は

  1. 単語の意味ビット列+位置情報の埋め込み(前節までで説明済み)
  2. セルフアテンション及びその工夫
    • (工夫1) 極小値回避のためのスケール調整付き内積計算
    • (工夫2) 意味の観点ごとの抽出と並列計算(マルチヘッドと呼ぶ)
  3. 残差ネット及び正規化
  4. 単語位置ごとの密結合ネット

という構成になっており、2~4を1ブロックとしてそのブロックを多段に積んでいくことで単語列から文脈情報を「エンコード」します。

 

これに「デコード」側も同様に上のブロックを並べることで文脈情報から「単語のビット列」を復元します。デコード側も、それまでに「翻訳済みの単語」を入力として与えて構造としては上記の手順1.~と同様になります。翻訳の開始時には「翻訳済みの単語」がまだ何もなくて空っぽなので<BOS>(beginning of sequence) という記号を使います。

 

さて、後編では上記のアルゴリズムの構成要素を一つずつ見ていきましょう。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。

では後編へ。

*1:もちろん言葉の意味には現実に経験したこと以上に人が思考や想像をしうることも含まれますから512ビットで十分かどうかは分かりません。

父のカセットテープ

高校生になった頃から、僕は父のことが嫌いになった。理由なんてない。いわゆる反抗期というやつだ。

 

父もそれを分かっていたのか、高校生の時以降、僕を避けるようになった。何か僕に言いたいことがあるときは必ず母の口を通して伝言してくるのだった。そんな父の姿勢が臆病な男にみえてますます嫌いになっていった。それからずっと、深いコミュニケーションを一度もしないまま父は他界してしまった。

 

父のガンが発覚した時はもう手遅れだったし、ちょうどその時は僕は自分の人生がうまくいってなくて余裕がないときだったので、親孝行なんて考えは微塵も浮かばなかった。

 

小さい頃は父はいろんなところへ連れて行ってくれた。遊園地もいったし、釣りもしたし、スキーも教わった。中学生になって僕がパソコンに興味を持ち始めたときに、東京の地理が何もわからない僕を秋葉原へ初めて連れてってくれたのも父だった。

 

そうした父との思い出は色々あるけれど、僕のなかで一番強い印象に残っているのは、一本のカセットテープだ。

 

父は自動車ディーラーで整備士の仕事をしていたので、平日も休日もどこへ行くにも足はもっぱら車だった。いまはいつでもどこでもスマホで音楽が聴けるけど、僕が小さい頃は運転中のBGMはカセットテープを掛けるのが普通だった。父の車にはかすれた紙ラベルのついたカセットテープが一本だけあって、父はその音楽をよく聴いていた。

 

父は家の中で音楽を聴くような趣味が特別あったわけではないから、そのテープは父が自分で買ったものなのかはわからない。紙のラベルに手書きで何かが書いてあったように思うので、知り合いからもらったものなのかもしれない。

 

いつからか僕自身もその音楽が気に入って、家族で出かけるときに父より先に車に乗り込むと、そのカセットテープをセットして音楽を一人で聴き始めることも多かった。でも中学生くらいの頃に、車を買い替えたからなのか、そのテープはどこかへ行ってしまった。

 

父が他界した後、そのテープのことを何度も思い出す。そして、その音楽をもう一度聴きたいと何度も思ってネットで何度も検索したのだけど、曲名を特定できなかった。カセットテープはオムニバス形式でいろんな曲が入っていたが、どれも素敵な曲ばかりで世界観も統一感を感じたので、どこかのミュージシャンのベスト盤だったのかもしれない。

 

父に色んな所へ連れて行ってもらった思い出は、父からしたら一番僕に覚えていて欲しいことだったかもしれない。でも父のことを嫌いなまま、もう会えなくなってしまったので、いまでも父と色んな所へ出かけた思い出に幸せを感じたりすることはない。それに、改めて父のいいところを見つけて好きになるチャンスももう無い。

 

だからこそカセットテープの思い出が強いのかもしれない。父のことを好きになるチャンスが、僕にはそのカセットテープの思い出にしか残されてないから。音楽の好みがすごく一致してたことが、なんだか今でもすごく嬉しいから。

 

最近僕はエレクトーンを習い始めてYouTubeで上手な奏者の動画を見ることが増えたのだけど、ちょうど今朝、気になって観た一つの動画で、あのカセットテープに入っていた曲が演奏されていた。聴き始めて、すぐに分かった。

 

それはポール・モーリアという作曲家のものらしい。それで、その作曲家の他の曲も色々聴いてみた。あのカセットテープに入っていた覚えのある曲が次々と見つかった。やはりあのテープはベスト盤だったようだ。

 

お盆になると、仏様はかつて現生で住んでたところに帰ってくるのだという。だからお盆は墓参りをせず、家で亡くなった人を偲んで供養をするのだという。僕はそんなに信心深いほうでもないから、そんな慣習的信仰はどうでも良いと思ってた。父の墓参りももう7,8年行ってない。

 

今日は予定してた用事があってこれから実家に帰るのだけど、そんなお盆の日の朝にずっと気になっていたカセットテープの音楽が何であったかが分かるなんて、なんだか父が教えに来てくれたような気がして、しばらく涙が止まらなかった。

 

本当に、僕を生み、育ててくれてありがとう。