コミュ障は治らないけど生きて行ける

本エントリは、僕の10代~30歳手前くらいまでに直面し対処した(僕にとっては)割と大きな人生の課題についてです。*1

 

小中学生時代から雑談が出来なかった(今でも苦手)

僕は小学校~中学校に掛けて、「自分から話しかける」ことが出来ない人間だった。話しかけて無視されたら怖いし(たぶん傷ついて2週間くらい誰とも話せなくなる)、そもそも話しかけるキッカケすらない。

 

だから、その頃の僕の「友達のできかた」は、もっぱら「何かの拍子に僕に話しかけてくれる親切なやつ」をアリジゴクのように待つ、という感じだった。

 

こういってはなんだが、コミュニケーション能力が壊滅的でありながら僕は「じぶんの『友達づくりのスタンス』がアリジゴク的であること」を自覚できるくらい頭が良かった。それが自己嫌悪に拍車をかけ、ますます「自分から他人に話しかけられない病」が重症化していった。

 

そういうコミュ障男子でも中学生時代になると、まぁ思春期だから当然好きな女子というのが出来る。どんな人かは明らかだろう。「クラスで一番明るくて、だれにでも気さくに話しかけちゃう女の子」である。僕はなぜか勉強だけは出来て、その女の子は僕と同じ学習塾に通っていたこともあり、勉強で分からないことがあると僕によく質問してきた。彼女にとって僕はさしずめ、アッシー君ならぬ、キッキー君であった。

 

高校時代もさして成長せず

高校は地元(埼玉県熊谷市)の公立のいわゆる進学校に通った。コミュ障な男の子にありがちであるように、僕は運動神経がとても悪かった。しかしなぜか筋力だけはあって、中学生の頃に砲丸投げで学年トップ5に入ってクラスで担任の先生が「帰りの会」でみんなの前で僕を褒めてくれたとき、僕は有頂天だった。

 

それで高校生になった僕は、以前から興味があった柔道をやろうと思い、柔道部に入った。柔道はかなり身体の触れ合いが密なスポーツであることもあって、部活の仲間との「ノンバーバルコミュニケーション」を少しずつ経験できるようになった。このときに出来た友達は今でも一生の財産で、この前も一緒に飲み会をしたりした。

 

部活のようなコミュニティに所属すると、自動的に友達が出来るのが素晴らしい。社会人生活を長年続けてきてつくづく思うのだけど、社会人になるとそういう機会や場はなかなかないのだ。柔道部でみんなと苦しい夏合宿をともにした思い出や、僕からは全然話しかけられないのに、気さくに僕に話しかけてくれたおかげで仲良くなれた幾人かの友達には一生分の感謝の思いでいっぱいだ。

 

大学時代=オトナの距離感の予行演習

大学時代になると、仕送りやアルバイトで自活する同級生もいっぱい出てくるし、可処分時間が高校生時代よりも多くなることもあって、「それぞれが持つコミュ力によって交友関係に差が拡がり始める」時期だと思う。

 

なので僕は生来のコミュ力の低さのせいで、あまり大学時代には能動的に交友関係を拡げることは出来なかった。コンピュータプログラミングを中学生時代からやっていたことや将棋を指す趣味を持っていたこともあって、少しだけ「同好の友」が出来たくらいだった。幸いなことに、それで知り合った同級生たちとの交流のおかげで、技術的な知識など社会人になる前の準備期間としての色んなことを知ることが出来た。

 

そのおかげもあって、当時世界一の性能のスーパーコンピュータを作っていた大企業に就職できた。

 

新卒会社員時代:やっぱり受け身(先輩ありがとう)

うまいこと大企業に入れたものの根っこはコミュ障なので、ハッキリ言って仕事はできない。いわゆる「頭はいいけど仕事はそんなにできないタイプ」だ。こう過去形で書いてはいるが、今でも僕は基本的に「頭はいいけど仕事はそんなにできないタイプ」な気もする。

 

でも大企業というのは社員の層が厚く、「仕事が出来て、かつ、気さくな先輩や上司」というのがいる。とりあえず僕はそういう人たちに見捨てられないように自分なりにベストを尽くしたり、遊びに誘われたら断らない(もっとも、コミュ障で友達も彼女もいないため超絶ヒマなので断る理由もない)、などによって首の皮一枚職場の人とコミュニケーションをとることが出来た。

 

しかし、プロとしてお金をもらうようになると、当然ながら自律性が求められる。平たく言えば、「仕事において、自分から話しかけないと仕事が進まないケース」が次々に生じてくるのだ。

 

そうなってようやく、これまで先送りにしてきた課題に向き合わざるを得なくなった。すなわち、「いかにして自分から話しかけ、必要な情報をゲットしたり、他者との関係性を構築して必要な情報が入ってくるチャネルを構築する」スキルを身につけなくてはならなくなったのだ。

 

ちょうどこのころ、何気なくみたテレビ番組のとあるシーンで美輪明宏さんが語った一言が僕の胸に刺さった。

 

正確な内容は覚えてないが、要約すれば以下のようなことを美輪明宏さんは言っていた。

 

感情を爆発させてしまう子は、感情を表現する「ことば」を知らないのです。「ことば」があれば、感情を「ことば」によって表現できるのです。それどころか「ことば」を使って自分と向き合い、自問自答によって感情を処理できるのです。

 

この話を聞いたことは自分にとって大きな転機となった。

 

そうか、僕に足りないのは、他人に話しかける勇気よりも他人に話しかけるときに必要な「ことば」なんだ、と

 

語彙力や国語力が自分に決定的にかけている短所だという自覚はあった(高校時代の僕は理数系が得意で文系科目が壊滅的だった)が、この美輪明宏さんのメッセージが引き金となって人文系の本を意識的にたくさん読むようになり、また知らない単語は必ず辞書で調べて覚えて使いこなせるようにと、自分の国語力の克服に取り組んだ。

 

ちょっとした自慢をいうと、その頃の3~4年間で新書を300冊くらい読んだ。

 

小さな会社数社を経てフリーランス

その後、だんだんと自分の仕事の仕方に自信がついてきて、ちょっと自信が溢れすぎてしまい(20代の若者とはそういうものである)、大企業に嫌気がさして辞めて小さな会社を転々とした。

 

「ことば」の力によって少しずつ自信がついてきたものの、僕は理系のエンジニアなので重要なのは技術力だし、理数系の力を駆使してスーパーコンピュータやロボットといった最先端の技術開発がしたかった。だがそういう仕事に携わることは出来なかった。

 

そんなこんなで、じゃあ独立してやってみようということで、会社を辞めてもがくように色々な人にあい、イベントに参加し、ってのをやってくうちに知人も増えていき、定職に就かなくても生活できる収入を得るという経験もすることが出来た。

 

それでようやく、「自分はコミュ障だけど生きていくうえで必要なレベルには達した」という実感を得ることが出来た。

 

ベンチャー企業の社員として

フリーランス生活を10年ほどしたが、紆余曲折を経て、今自分はベンチャー企業でエンジニアとして働いている。

ズタボロだった小中学生の頃にくらべたら、今僕が「死なないレベルのコミュ力」を持っていることはとてつもない成長である。なので僕は欲が出てきた。生まれながらにして100のスキルを持つ人よりも、生来はゼロなのに60くらいのレベルに自力(?)で達した僕ならレベル1000くらい頑張ればいけるんじゃないかって思い始めちゃったのだ。

 

具体的に言うと、小説を書いて世間の人に「面白い文章だ」と言われたい。国語力・語彙力・文章力・表現力、を磨いて、文学新人賞をとるレベルまで行きたい。文学賞の良いところは年齢不問であることだ。*2

 

この長ったらしいブログ記事をここまで読んでくださったあなたからしたら、ダラダラとしたとりとめのない話で、文才を感じることは無いだろう。

 

でももし、コミュニケーションがうまく取れなくて悩んでいる(僕より若い)人に、この記事が届いて勇気を持ってもらえたら、それは僕にとって何よりの喜びである。

*1:40過ぎにもなると自分の昔話ばっかりするオッサン癖が出てきてよくないっすね。でもまぁとりあえず、ご興味あるかたに読んでもらえれば幸甚なり。

*2:とりあえず年内に1作品は応募せねば