2023年にやりたいこと

2022年も年の瀬ですね。

今日は個人的に来年(仕事以外で)やりたいことをリストアップしてみます。

 

深センに旅行する

世界で一番進歩の速い場所ではないかと思う。その空気だけでも吸ってみたい。

 

・1日バーのマスターをやる

キッチンカーを何台も自作してる友達に協力してもらい(すでに約束はしてある)、どこかのスペースを借りてやる。イベントを色々企画してお客さんを楽しませたい。イベントの内容は例えば、利き酒や利きチョコレート、目隠しして手に持った物体が何かを当てるゲーム、男性/女性の顔と声の対応を当てるゲーム、激辛たこ焼きロシアンルーレット、等々。屋外になると思うので、温かく風も少ないゴールデンウィークあたりが目安。

 

・エレクトーン7級レベルの曲の演奏をマスターする

今のレベルから一つジャンプしたようなレベルが7級なのでそのレベルの曲をしっかり弾けるくらいまで上達したい。

 

NHKのど自慢に出場する

抽選にあたるか問題はあるが、多少旅行も含めて全国の開催地でいけそうな回を狙って応募。カラオケでいっぱい歌って練習する。 

 

ハーフマラソン完走

春にどこか10キロマラソンのイベントに参加して、ジムでトレーニングして秋くらいにハーフマラソンという運びで行きたい。今のところジムではエアロバイクと筋トレを60分したあとにランニングマシンで約8km/hで30分(約4km)走る計90分のトレーニングを週2ペースでやってるけどハーフマラソン完走するにはちょっと足りない気もする。年明けから徐々に負荷を少しずつ上げていきたい。

 

・週一以上のペースでブログを書く

普通に生活してる中からネタを考えてコラムやエッセイを書いても良いのだけど、美術展にいったり旅行したり本を読んだりという「自分の外との関わり」によって得られる「自分の中との共鳴」を文章に書き起こすような内容を来年は志向したい。

 

数学書を1か月1冊以上のペースで読む

恐らく本リストでこれが一番大変なのだけど一番充実感と達成感が得られるものなのでちゃんとやっていきたい。2023年の終わりに振り返ったとき、他がイマイチでもこれだけは結構できたといえるように一番メインにエネルギーを注ぐ。

 

・平日の夜はしっかり本を読む

これだけやりたいことがあると、積読本の消化は平日メインでやらなければならない。お酒は飲んでもいいから飲みながらでもちゃんと本を読む。

 

・月に1本以上のペースで小説を書く

今年は小説を書くのにチャレンジしたものの、なかなか上手く筆が進まなかった。下手でもいいから書いて小説投稿サイトで公開するってのをちゃんとやる。

 

・月に1曲以上のペースで作曲する

オリジナルの楽曲1ダースくらい作ってライブをやるのが夢なので、最初は下手でもいいからどんどん曲を作る。エレクトーンを習い始めたのも半分は作曲のためなのだし。

 

無意味な相槌の重要性 ~それは能の起源なのか~

昨日、ひょんな機会から会社関係の3人(Sさん、Rさん、私)でランチをした。仕事のMTGではなく、ざっくばらんな雑談会みたいな場だったのだけど、僕にとっては濃密な時間だった。

 

同僚のRさんはエンジニアではなく戦略立案やコミュニケーションのほうが本領という役職の人で、ランチ会でも会話をすごくリードしてくれた。Rさん自身はそんなに凄く意識してリードしてるという感じでもなかったみたいだけど。

 

で、そのRさんの会話のリードの仕方というのが自分にとって「新しい発見」につながったというのが本記事の主題。

Rさんは、会話の途中途中で「そうですよね~」とか「うん、がんばりましょう!」とか「たのしみですね~」といった相槌を(少なくとも僕よりは)頻繁に発する。僕はRさんと話すのは今回が初めてではなかったけど、これまでもその相槌について気に留めることもなかった。

 

でも、その昨日のランチ会は僕にとって「凄く濃密で長い時間」に感じられたのだ。1時間の予定で3人で集まったのだけど、(そろそろ1時間かな?)と僕が自分の腕時計をそっとチェックしても全然まだ時間が残ってるというのが2,3回くらいあった。もちろん、会話が途切れたら気まずいとかそういう関係性でもないのだけど、なんとなく途切れずに3人で話が続いていた。

 

僕は、自分が会話をリードしようという意識にあるとき、会話が途切れそうな内容になったり、あるいは実際に途切れてだれも言葉を発しなくなったりしたとき、それまでの話の流れを大きく変えすぎないいい感じの方向転換とか「ふくらませ」になりそうな題材とか質問とかを投げて場をいい感じに盛り上がるようにする、というのが常套手段だ。ちょっと難しくいうと「有意味に次ぐ有意味」みたいなスタンスが僕のやり方なのだ。

 

でもRさんの会話のつなげ方はそれとは違った。自分が主体的に話題を投下することで場の温度をキープするのではなく、「それ自体は無意味ともいえる相槌」を発することによって、他の人が次の発言をしやすい空気を維持するのだ。

 

身近な喩えで言うと、テレビコマーシャルみたいな感じだろうか。番組と番組の間が完全に無音だったとしたら、他のチャンネルに変えてしまうだろう。でもコマーシャルは確かにスポンサーの都合で作られた映像と音が流れているにしても、そこには「視聴者の温度をキープする力」があるように思う。だから面白くない番組をダラダラとみて、さらに面白くもないCMが流れてきたとしても、チャンネルを変えずに惰性でそのまま見続けてしまうことがすくなくないのだろう。

 

僕は「無言」を回避するために「僕が何か話題を出す」というスタンスであるが、Rさんはいわば「無音」を回避することで「他の人が言葉を発しやすい温度を保っている」ように感じたのだ。

 

(ちなみに、この僕の考えたことを社内コミュニケーションツールで書いたら、Rさんから笑い交じりの「そうかもね」的な返事をもらった)

 

会話において無言と無音の違いを僕はこれまで意識したことがなかった。「意味」と「無意味」だけを考えたら、「それほど意味のない相槌」が会話において非常に重要な役割を果たしていることには気づきにくい。僕が相槌を打つときは必ず「本当にそう思ったときに、同意の気持ちを伝える意図」で「そうですよねぇ」とかいう言葉を発する。

 

極端な話「無意味が嫌い」とまで思って生きてきた。でも「無意味」だけど「音が有る」状態というのがどうやら凄く重要みたいだぞ、と昨日思ったのだ。

 

それで、ようやく本記事のタイトルに関連づくのだけど「能という伝統芸術」を観てみたくなった。おそらく「音がある」という状態を芸術に昇華させた文化なのではないか?と、今回のRさんの会話のスタイルをみてふと思ったからだ。

 

かなり何年も前、能を趣味で演舞する知り合いに、「能の良さ」について聞いたことがある。それによると「能」は、その場に居合わせるだけで、インスピレーションが湧き、新しいアイディアを思いついたり、恐怖をやわらげたりという効果があるのだそうだ。

 

血みどろの戦国時代に武将たちがこぞって能を鑑賞したのもうなずける。明日の戦で自分は死ぬかもしれない、その瀬戸際の時に能に触れることでインスピレーションを高め、恐怖を和らげ、ベストな状態で戦闘に臨む、そういう機能を能が果たしていたのだろう。

 

Rさんの相槌の打ち方は「能の起源」のようなものなのではないかという気付きを得た昨日のことは、僕はずっと忘れないだろう。

 

(理系にこそ伝えたい)思想とは何か

人工知能の進歩が目覚ましいですね。とくに最近発表されたChatGPT、ホント凄いですよね。

人間にしか出来ないと思われていたようなことが次々と人工知能によって実現されていくのを目の当たりにして、今、そして、この先の技術的な進歩が、我々をどのような社会へ導いていくのか期待と不安が入り混じる今日この頃であります。

人工知能の個々の研究成果それ自体は、科学技術的に実現された100%の再現性のある客観的ファクトですが、そのファクトを見て「何を思うか」は人それぞれでしょう。未来に不安を感じる人もいれば、ワクワクする人もいる。そして少数の天才たちは、それらを「作りだす側」つまり「技術開発の担い手」として大いなる希望のもとに仕事に取り組んでいることでしょう。

ここで本記事の主題を提示しましょう。それは、理系人間が陥りがちな思考パターン、すなわち、「人それぞれなこと」に関する解像度の低さについて、です。

人工知能の進歩は、確かにすごい。それらをひとつづつキャッチアップし、「今技術がどこまで進んでいるのか」について敏感であることは重要なことである、と。このことについては、理系人間の多くが賛同することでしょう。

しかし、それらの技術進歩のファクトをみて、個々の人々が何を感じ、どう解釈したかについては、「人それぞれなのだから、そこに何か人類の知的な成果物などは期待できない」と思ってはいないでしょうか?

このことは、非常に、本当に非常に重要なことなのです。私は大学では理系の学問を専攻しましたし、理系の知識の重要性についてはしっかりと理解しているつもりです。その自分のバックグラウンドをふまえてもなお、人文哲学における知が理系の知と同等かそれ以上に重要であることについて、同輩である理系諸兄に対して強く訴えざるを得ないという気持ちがあります。

「人それぞれ」なことについて、「知」を見出しうるのだ、という諒解こそがまず人文哲学における知の価値を理系人間が認める第一歩です。

例えば、ここに二つの意見があったとしましょう。

(意見1)人工知能は、いずれ意識を持つ

(意見2)人工知能は、決して意識を持ち得ない

この2つの意見のうち、いずれが「妥当」すなわち「真実に近い」かを「現時点」で議論することに「意義」を感じるでしょうか?

そういう問いを立てると、理系人間の多くはこう答えるのではないでしょうか?

そんな未来のことを現時点で考える意味はない。手を動かし実現できたことがすべてだ。机上の空論などする暇があったら手を動かせ、論文を書け

と。

しかし、人文哲学の分野ではそうした考え方は「知の怠慢」と考えます。理系が信じる「自然科学の方法論」は、実験や観察に基づく実証的で客観的な事実を専ら人類の知の根拠として採用するという方法論です。この態度は、人類が本来持ってるはずの知を、万人に共有しうる物理的で客観的なもののみにしか適用しない、ことを意味します。

本来、人間は実験や観察に依らずとも「神」とか「宇宙」といった観念的な世界に対しても考察を及ぼさせることが出来ます。神というと、「それは宗教じゃないか。人類の知などとは程遠いものだ。」というツッコミがあるかもしれませんが、人文哲学における知は宗教とは大いに異なるのです。

宗教における「神」は、(その当該)宗教の中では「疑う余地のない真理」として「教義」による正当性が強制されます。しかし、人文哲学における「神」は、「いつでもその存在について疑問をさしはさむ余地を許す存在」なのです。そこが宗教との決定的な違いです。

人それぞれ、神についての見方や考え方はことなります。だから神について自然科学的に研究することは出来ません。自然科学とは万人にとって疑いようのないファクトだけに依拠して組み立てる知の方法論ですから。

しかし、そうした人によって考え方が異なる「神」という概念にさえ、いくつかの考え方を提起することが出来ます。簡単な例で言えば、神は唯一の存在であるという一神論と、神は至る所に遍在するという八百万の多神論。人間の知を使って、この2つの間にどのくらい「真理性」があるかを「吟味」することが出来ます。

そして、例えばイスラム圏の人たちにとっては「一神論」の正当性を支持する根拠が示され、それが多神教の文化圏の人々にとっても「受け入れ可能な知」でもあったりするわけです。

だから、科学を信奉し、それ以外の知を「蓄積性のない思慮」と一蹴するような「理系にありがちな態度」は非常にもったいないと思うのです。


科学の世界では「理論」という言葉が良く使われます。理論という言葉には、それが正しいか否かが(例えいまは技術的に不可能であっても原理的にはいずれ)実験や観察によって万人共通のファクトして示されうる、というニュアンスが含まれています。

この科学における理論という対に相当するのが、哲学における「思想」です。個々の思想は、万人共通のファクトということにはなりませんが、ある一定数の、それはマジョリティかもしれないし、マイノリティかもしれない、あるいは一定の条件に当てはまる人間の集団かもしれない、そうした「ある人々にとっての真理性」が蓋然的であるような知ということになります。

これは、科学における理論の重要性と同等あるいはそれ以上に人類が蓄積し後世に受け継いでいくべき価値のあるものだと考えられないでしょうか。

思想は確かに「人それぞれ」です。しかし、それでもなお人類の知としての価値を確かにもっているのだという立場に立つこと、これが同胞としての理系諸兄に私が強く訴えたいことなのです。

どうか、人工知能の技術的進歩のファクトだけに目を向けないでください。それをどう解釈し、現在と未来をどう考えるかという哲学、そして思想にも目を向け、その知を我らが理系同胞たちの手によっても深めていくような、そういう世界を一緒に作ることに賛同していただきたいのです。

 

カラオケにハマった

これを書いてるのはお天気の良い日曜日の昼前。今朝も1人でカラオケに行って来た。

 

きっかけ

カラオケにハマりだしたきっかけは、今の会社での生活に慣れてきて気分を変えたいなと考えてた時にふと思いついた「平日の朝、出勤前にカラオケに行く」というアイディアを試しにやってみたことだった。案の定、とびっきりの楽しさを味わうことが出来た。

 

それで頻繁に通いだして約3週間が経つ。カラオケ屋の会員アプリを確認すると、この21日の間に13回通ったようだ。約62%、我ながらすごい。*1

 

モチベーション

カラオケに行くモチベーションは純粋な「歌う愉しみ」を味わうというのもあるけど、自分なりに練習することで「ちょっとずつ上手くなっていく実感」があるのがまた楽しい。

 

始めて最初の週は、とにかく腹式呼吸と発声練習を意識して、棒読みでもいいから声をちゃんと出すようにした。大きな声を出すと、自分の声の音域の中心付近では音程が安定するが、音域のボーダーギリギリの所では音程が外れやすい。声を出しつつ音程を外さないようにする練習は、なんだか射撃訓練のようでもある。ちょっと変な喩えになってしまったが要は、音が撃ち落としたいターゲット、喉のコントロールが銃器のようなイメージである。

 

発声と筋トレとたんぱく補給

そこで一つ発見したのは、自分の声の音域の境界ギリギリ付近においては、発声を控えて息を多く吐き出すようにするとちゃんとその音が出せるという点だった。いわゆる「囁くように歌う」ことで低音・高音ともに広い音域を出すことができる。だから、少し無理目な曲をわざと選んで、囁き声の調子で練習したりもした。

 

そうすると、面白いことに何日か経つと実際に音域が少し広がってきたりもした。音域が拡がることは嬉しいことでもあるが、あまりやりすぎると喉を傷めつけてコンディションが戻るのに時間が掛かってしまうという経験もした。

 

声を出す部分も、我々人間の「動物としての身体の一部」であるから、それは筋肉である。したがって「筋トレ」と一緒だ。だから継続的に鍛えることである程度の適応が見られるはずだ。短期間にそれをやりすぎるとかえって身体を傷めてしまうのも筋トレと一緒だ。そして、筋トレをするからには「たんぱく質」の補給も重要だろう。僕はジムに通い、プロテインは飲まないけど納豆を1日2~3パック、豆乳を一日300~500mlくらい飲む生活をしているので、その習慣の中にカラオケによる発声練習が組み込まれるのはとても合理的だと思っている。

 

楽譜通り歌うことの重要性

また、もう一つ最近発見したことがある。それは、歌における「形式の重要性」だ。それは言い換えると「リズム感と音程をちゃんと守る」ことが「情感を込めて歌う」ことよりも相対的に重要度が高いということである。要は歌は「楽譜通り歌ってナンボ」だということだ。

 

プロのボーカリストの歌を聴くと、とても上手に情感やテクニックを入れて歌うので、それをついつい自分でも真似したくなってしまうが、生半可に真似だけするとかえってダサい歌い方になってしまうのだ。素人にとっては、あくまでも音程とリズム感という「楽譜が指示する形式の中で最大限に工夫」することが重要であって、楽譜を外すような歌い方は非常に難しい。

 

そして、プロでも例えば桑田佳祐さんの歌い方をよくよく聴いてみると、独特の節回しやトーンを使いつつもリズムや音程はちゃんと「楽譜通りに」歌っていることに気づく。彼は形式の中でめっちゃ工夫してるのだ。竹内まりやさんもそうだし、幾田りらさんだってそうなのだ。

 

楽譜を外すとはどういうことか

と、ここまで考えると、じゃあ美空ひばりさんの「川の流れのように」はどうなのだ?という疑問が湧いてくるのは自然なことかもしれない。僕もその点を疑問に思った。美空ひばりさんは楽譜通り歌ってないのに、なぜあれほど美しい歌が歌えるのだろう?、と。それについて自分なりに考えたことを以下で述べてみよう。

 

それは、美空ひばりさんは「楽譜通り歌おうとしている」という考え方だ。(美空ひばりさんと自分を比較するのは厚顔無恥の至りではあるが)自分も楽譜通り歌おうとして気を付けながら歌っていても、込めている情感によってときどき楽譜を外してしまうことがある。そして、そういうときの「外し」は自分で録音したものを後で聞いてみても「きれい」なのだ。

 

最初から楽譜を外そうとして外す歌い方はなんだかあざとくいやらしく聞こえてしまうのだが、そうではなく、ちゃんと楽譜通り歌おうとして自然に外れてしまう時の感じはそういうマイナス面を感じさせずむしろプラスに聴こえるのだ。美空ひばりさんは幼少期から始まっていた長年の歌手生活の中で歌を極めていった結果、そういう「自然な外し」が体に染みついていて、楽譜通り歌おうとするだけでもあれだけの美しい「外し」の入った歌い方ができているのかもしれない。

 

歌の成立条件としての「形式性」

さて、楽譜通り、というのは上の方でも述べたがそれは「形式を守る」と言い換えることが出来るだろう。「歌」といえば和歌や短歌という文学ジャンルにも「歌」という漢字が充てられているが、和歌や短歌は57577の文字数という「形式」がある。日本語の「歌」という概念には形式性の所在が暗に含まれているのだ。それは一見とても不思議なことのように感じられる。

 

しかし、この点をよく考えてみると面白いことに気づく。そもそも歌とは何であったか。僕が思うに、歌とは「本来は専ら本人だけに帰されるべき個々人の感情を、公共の場で披露し共有する営み」である。感情それ自体は生々しいものであり、そのままでは公の場で開陳することが単なる「恥さらし」になってしまう。

 

感情に服を着せてやる

そこで、「感情に服を着せてやる」必要があるのだ。大通りを裸で歩く人が居ないように、公の場で自分の生の感情を他人にそのまま見せるケースは少ない。つまり、何かドラマティックな出来事が既にその場にいる聴衆と共有出来ているケースに限られる。人の心は普段はバラバラであり、そのベクトルがある感情の方向へそろっているときにだけ、生の感情のままで受け入れられるのだ。

 

だから、「ふだん」は感情は生のままで届けることは出来ず、「形式」で包んであげる必要がある。それが感情に服を着せてやるということの意味である。今のように音楽が発展していなかった*2平安時代等では和歌や短歌がその役割を担ったのだろう。

 

そんな感じで

カラオケという趣味に興じる中で、ちょっとした上達の実感あり、自分なりの知識の発見もあり、なかなかこのマイブームもいまのところ陰りが見えない状況なので、引き続き楽しんでいきたいと思う。

 

来年はNHKのど自慢に出場したいな。うん、割とマジで。

 

ではまた。

*1:僕の通ってるカラオケ屋さんは朝は特に料金が安いのだが、それは平日でも休日でも変わらず、平日は90分、休日は120分いつも歌っている。

*2:今のポピュラーミュージックのルーツは西洋のモーツアルトなど近代以降に成立した音楽である

リゾームにおける切断

短めのブログを頻度高めに書く、っていうの再開したいと思う。

 

最近読んでる本の一つ*1、千葉雅也先生のこの本が凄くおすすめ。

『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

 

新書ってそれなりにライトで読みやすい内容の本が多く、この本もそうなんだけど千葉雅也先生の哲学者としてのある意味半生で得た知見全体を一般向けに書いたという趣(先生自身が本書の中でそう書いている)の本で、「お得感」がある。

 

その中で、ジル・ドゥルーズの「リゾーム」という概念を説明している部分があるのだけど、以前「ちくま新書」でドゥルーズ入門 を読んだときは自分は明確に意識してなかったのだろうリゾームにおける「切断」という考え方にハッとした。

 

ドゥルーズとかのポスト構造主義思想における諸概念に通底することとして、既存の構成的・永続的な意味の体系を流動的で変化に富むものとしてとらえる、という安直な理解を僕はしてきたけど、「どんどん変わっていく」という理解の中に「切断」とかさらにいえば「消える」といったような意味を自分は捉えたことがなかったことに気づいた。

 

ここでいうリゾーム的な切断というのは、通常のある程度確固たる意味体系の上での切断とは異なるという点が重要だ。

 

例えば、Aさんが転職することになった、というケースを考えてみよう。これは、Aさんの人生のキャリア全体からみたら一つの「変化」と捉えることができるが、転職する前の状態に目を向ければそこにおいては「切断」である。これは、転職や勤務先という「意味の定まった言葉」を用いた場合の「切断」である。これは、リゾーム的な切断が特に指し示したい対象ではない

 

それに対して、例えば、「人間の言葉あるいは認識から『死』と『睡眠(あるいは寝るという状態)』を消し去った世界」を考えてみよう。その世界においては、死と睡眠状態は見分けにくい。睡眠中は呼吸をしてるが死んでしまうと呼吸さえないので、ちゃんと観察すれば確かに見分けはつくだろうが、もし仮にその呼吸をしてるかどうかが分からない例えばその人の目のところだけを映した映像がずっと流れるムービーがあったとしたら、その状況をみてその人がどういう状態であるかはどう認識すればよいのだろう?

 

ここで、本記事では死や睡眠という概念を「消し去った」という言い方を僕はしたが、リゾームという言葉が指し示すのは本当は消し去るというよりそもそも概念自体が成立する以前の状況のことである。その「言葉以前の世界」における「切断」を考えたいのである。

 

我々はふだん、ポジティブ・ネガティブという言葉を使ったり、何かがある、ないという言葉をつかったりして、そこに「いい・悪い」という規範的ないし倫理的な「評価」を与えるけど、リゾーム的な世界にはそもそも接合と変化しかないから規範や倫理においては「いいもの」しかないはずなんだけど、その次元において既に「切断」があるのだとしたらその規範や倫理はどう考えたらいいのだろう?

 

リゾームにおける「切断」とは何か?について具体的な例を考え始めても、言葉による出口を見つける限りそれはリゾームにおける生成や変化を指し示してしまうので切断を語れなくなる。つまりリゾームの切断的な側面を考えようとする限り、全く言葉にならないものを考え、そう考えることに時間を使い、その結果何も得られず言葉も残らなかったということにならざるを得ない。

 

そういう概念が存在するのだということが新鮮だったし、そしてリゾームにおける切断のことを「考える」と、その出口がないのにも関わらず、ただ時間を使ったに過ぎないその時間に「確かに考えたはずである」という不思議な認識が残るという生まれて初めての感覚を味わったのだった。

*1:僕は20冊くらいの本を同時並行で読むのが好きなタイプです。

概念化とは何か

突然ですが、本ブログのタイトルは「concepturalization(=概念化)」というものです。

 

パスカルという人が「人間は考える葦である」と語ったことは割と有名な話だと思いますが、「考える」という行為には「言語的な思考」と「非言語的な思考」があります。人間は他の動物と比べて言語が発達した生き物だと思いますが、地球上で言語を我々人間のように自在に操る動物が我々以外に存在しないことからも分かる通り、前者の「言語的思考」は生き物の世界ではマイノリティです。

 

つまり、後者の「非言語的」のほうが圧倒的マジョリティなわけです。そしてその事情は我々人間にも当てはまります。

 

例えば、ある1日の終わりに、その日の出来事や考えたことの「すべて」を日記にしたためることを想像してみましょう。その日の瞬間瞬間を漏らさず日記に書き残すならば、それこそ軽く一冊の文庫本に匹敵するくらいの量の文章を書かなくてはならないかもしれません。それでもなお、言葉にならない部分というのが出てくるはずです。日記ですから、その日の出来事や心の動きなどを「時系列に沿って」書き留めるはずですが、文章にはかなり文と文との間すなわち「文間」がありますから、その文間こそが「非言語的な思考」の領野に属する出来事や心情に相当します。

 

このように、人間は地球上の生き物の中でも圧倒的に言語が発達しているとはいえ、やはり人間の精神における「非言語性」の占める部分は非常に大きいといえるでしょう。

 

だからこそ、非言語的な世界からいかに言語化が可能な領域を見いだして、それを切り取って「カタチ」にするかは、人間を人間たらしめる思考の営みそのものであると言っても過言ではないでしょう。私はその営為を「conceptualization(=概念化)」という言葉を使ってひとくくりに指し示したいと思いました。

 

ただ、言葉や「概念」というものは本来の1次的でインスタント(=即時的)な体験や経験を、時間方向に固定するという強い傾向性をその使用者にもたらすものです。

 

それゆえ「概念化」は、人間を他の動物たちから隔てる人間ならではの精神の賜物である反面、その精神性ゆえに人間の本来の動物性を必要以上に忘却させかねない危険性も孕みます。

 

したがって、概念化を行う際には常にその概念を組み立てるに至った1次的な動物的経験に根差して、いつでも経験的な具体例に立ち返る用意を持つことが不可欠になります。このことは、概念化が「抽象化」とは大きく異なることを意味します。抽象化は、具体例に立ち返ることを必ずしも要請しないからです。

 

常に1次体験への帰還を保証しなければならない思考の営為としてのconceptualizationすなわち概念化は抽象と具体の間のシームレスな行き来を担保して初めて知すなわち蓄積性をもつ精神行為としての資格を得るのです。

真心があれば気の利いた言葉なんて要らないのかも

この週末は、鎌倉に一泊二日旅行に行ってきました。初日の昼は鎌倉の低い山林のよく舗装された道をハイキングし、江ノ電に乗り七里ヶ浜へ足を運んで浜辺を散策しました。

 

夕日を背にむけて帰るのが名残惜しくて、沈む陽をみながらほぼ反対歩きで鎌倉高校前駅までたどり着き、プラットフォーム前に広がる水平線の大パノラマを当たり前のように無視して友達と輪になっておしゃべりする地元の高校生たちに少しだけうらやましさを感じつつ、江ノ電に乗って長谷駅に戻ったあと、宿の最寄りの停留所までバスで向い、ドラッグストアで軽くお酒を買って鎌倉ゲストハウスに到着しました。

 

ここは個室もあるけど僕はいつもドミトリーで、同日に来てるお客さんと囲炉裏端でお酒を飲むのが楽しみな宿です。約1か月ぶりの訪問でしたが、前回顔見知りになったお客さんも幾人かいて、今回もとても楽しい時間を過ごすことができました。

 

そのお客さんの中の一人、もはや常連客中の常連客だそうなJさんという30ちょいの青年が前回顔見知りになって今回もたまたま宿泊日が一緒で、前回同様に彼は日本酒を差し入れがてら買って持ち込んで周りの客にタダでふるまうというサービスをしていて、僕もご相伴にあずかりました。

 

Jさんは少しパーマの掛かったロンゲの一部をレッドに染めていて、シュッとした顔立ちのちょっとしたイケメンで、いかにも美大やクリエイティブ系の職業の人にいそうなタイプのナイスガイです。しゃべり方はあんまりハキハキとした感じはなく、どちらかというとボソボソっとしゃべるタイプで、みんなにお酒をふるまいつつ、同じく常連客である他のお客さんやゲストハウスのおかみさんとのおしゃべりを楽しんでいました。

 

Jさんはニコニコすることもないし怒った表情をすることもなく、いつも平然とした表情で、相手と話をします。でも、彼が相手のことをものすごく思いやるやさしい性格であることはきっとみんなが感じていて、常連客からも宿のスタッフからも、そして僕みたいな一元様に毛が生えた程度のお客からも「Jさん、Jさん」と気軽に話かけられてはボソっと気さくな言葉を返してくるような人です。

 

僕自身もおしゃべりは好きなほうだけど、Jさんとは違ってガンガン自分の思った事や考えたことや相手が言われたら喜びそうな内容の話を早口に「主張」していくタイプなので、そのJさんとは「コミュニケーションのテイスト」がいわば真逆です。

 

Jさんはお酒をふるまうために、なんと専用のグラスセットまで用意してきました。日本酒にも純米酒、や吟醸酒、濁り酒や生酒、スパークリングワイン的に炭酸発酵を強めた日本酒、と種類が色々あります。Jさんはその色んな種類のお酒を1本ずつ買ってきて、それぞれのグラスにマッチするお酒を注いでいました。その多くのグラスは見た目はワイングラスのような形状のものです。

 

一通り味見させてもらった後、グラスを片付けずに宴会は続いていったので、僕はそのグラスでまた別の人が持ち込んだ赤ワインを飲み始めました。他のお客さんとおしゃべりしながらワインをチビチビやってたらJさんが(トイレかな?)僕の前を通りがかったので、

 

「Jさん、これワイン入れちゃった、ごめーん」

 

と半分からかい気味に言葉を投げたら、Jさんは僕の肩をチョンとタッチしながら

 

「ダーメ。ちゃんと使ってよそのグラス。」

 

と、お馴染みのボソっとした口調で言葉を返してきました。それで、知り合ってせいぜい二晩の顔見知りでしかない僕みたいな「他のお客さん」に、そうやって気さくに言葉を返せるJさんって凄いなぁと彼を尊敬する気持ちを抱いたのでした。

 

他人と仲良くなるために「気の利いた言葉」とか「相手を理解しようと努力する」とかはいらなくて、Jさんのように「相手に心を開く」ということが大事なのだなぁと改めて思ったし、そういうことが自然にできるJさんの美点を見て、僕もそういう風になれたらいいなと感じたのでした。