概念化とは何か

突然ですが、本ブログのタイトルは「concepturalization(=概念化)」というものです。

 

パスカルという人が「人間は考える葦である」と語ったことは割と有名な話だと思いますが、「考える」という行為には「言語的な思考」と「非言語的な思考」があります。人間は他の動物と比べて言語が発達した生き物だと思いますが、地球上で言語を我々人間のように自在に操る動物が我々以外に存在しないことからも分かる通り、前者の「言語的思考」は生き物の世界ではマイノリティです。

 

つまり、後者の「非言語的」のほうが圧倒的マジョリティなわけです。そしてその事情は我々人間にも当てはまります。

 

例えば、ある1日の終わりに、その日の出来事や考えたことの「すべて」を日記にしたためることを想像してみましょう。その日の瞬間瞬間を漏らさず日記に書き残すならば、それこそ軽く一冊の文庫本に匹敵するくらいの量の文章を書かなくてはならないかもしれません。それでもなお、言葉にならない部分というのが出てくるはずです。日記ですから、その日の出来事や心の動きなどを「時系列に沿って」書き留めるはずですが、文章にはかなり文と文との間すなわち「文間」がありますから、その文間こそが「非言語的な思考」の領野に属する出来事や心情に相当します。

 

このように、人間は地球上の生き物の中でも圧倒的に言語が発達しているとはいえ、やはり人間の精神における「非言語性」の占める部分は非常に大きいといえるでしょう。

 

だからこそ、非言語的な世界からいかに言語化が可能な領域を見いだして、それを切り取って「カタチ」にするかは、人間を人間たらしめる思考の営みそのものであると言っても過言ではないでしょう。私はその営為を「conceptualization(=概念化)」という言葉を使ってひとくくりに指し示したいと思いました。

 

ただ、言葉や「概念」というものは本来の1次的でインスタント(=即時的)な体験や経験を、時間方向に固定するという強い傾向性をその使用者にもたらすものです。

 

それゆえ「概念化」は、人間を他の動物たちから隔てる人間ならではの精神の賜物である反面、その精神性ゆえに人間の本来の動物性を必要以上に忘却させかねない危険性も孕みます。

 

したがって、概念化を行う際には常にその概念を組み立てるに至った1次的な動物的経験に根差して、いつでも経験的な具体例に立ち返る用意を持つことが不可欠になります。このことは、概念化が「抽象化」とは大きく異なることを意味します。抽象化は、具体例に立ち返ることを必ずしも要請しないからです。

 

常に1次体験への帰還を保証しなければならない思考の営為としてのconceptualizationすなわち概念化は抽象と具体の間のシームレスな行き来を担保して初めて知すなわち蓄積性をもつ精神行為としての資格を得るのです。