無意味な相槌の重要性 ~それは能の起源なのか~

昨日、ひょんな機会から会社関係の3人(Sさん、Rさん、私)でランチをした。仕事のMTGではなく、ざっくばらんな雑談会みたいな場だったのだけど、僕にとっては濃密な時間だった。

 

同僚のRさんはエンジニアではなく戦略立案やコミュニケーションのほうが本領という役職の人で、ランチ会でも会話をすごくリードしてくれた。Rさん自身はそんなに凄く意識してリードしてるという感じでもなかったみたいだけど。

 

で、そのRさんの会話のリードの仕方というのが自分にとって「新しい発見」につながったというのが本記事の主題。

Rさんは、会話の途中途中で「そうですよね~」とか「うん、がんばりましょう!」とか「たのしみですね~」といった相槌を(少なくとも僕よりは)頻繁に発する。僕はRさんと話すのは今回が初めてではなかったけど、これまでもその相槌について気に留めることもなかった。

 

でも、その昨日のランチ会は僕にとって「凄く濃密で長い時間」に感じられたのだ。1時間の予定で3人で集まったのだけど、(そろそろ1時間かな?)と僕が自分の腕時計をそっとチェックしても全然まだ時間が残ってるというのが2,3回くらいあった。もちろん、会話が途切れたら気まずいとかそういう関係性でもないのだけど、なんとなく途切れずに3人で話が続いていた。

 

僕は、自分が会話をリードしようという意識にあるとき、会話が途切れそうな内容になったり、あるいは実際に途切れてだれも言葉を発しなくなったりしたとき、それまでの話の流れを大きく変えすぎないいい感じの方向転換とか「ふくらませ」になりそうな題材とか質問とかを投げて場をいい感じに盛り上がるようにする、というのが常套手段だ。ちょっと難しくいうと「有意味に次ぐ有意味」みたいなスタンスが僕のやり方なのだ。

 

でもRさんの会話のつなげ方はそれとは違った。自分が主体的に話題を投下することで場の温度をキープするのではなく、「それ自体は無意味ともいえる相槌」を発することによって、他の人が次の発言をしやすい空気を維持するのだ。

 

身近な喩えで言うと、テレビコマーシャルみたいな感じだろうか。番組と番組の間が完全に無音だったとしたら、他のチャンネルに変えてしまうだろう。でもコマーシャルは確かにスポンサーの都合で作られた映像と音が流れているにしても、そこには「視聴者の温度をキープする力」があるように思う。だから面白くない番組をダラダラとみて、さらに面白くもないCMが流れてきたとしても、チャンネルを変えずに惰性でそのまま見続けてしまうことがすくなくないのだろう。

 

僕は「無言」を回避するために「僕が何か話題を出す」というスタンスであるが、Rさんはいわば「無音」を回避することで「他の人が言葉を発しやすい温度を保っている」ように感じたのだ。

 

(ちなみに、この僕の考えたことを社内コミュニケーションツールで書いたら、Rさんから笑い交じりの「そうかもね」的な返事をもらった)

 

会話において無言と無音の違いを僕はこれまで意識したことがなかった。「意味」と「無意味」だけを考えたら、「それほど意味のない相槌」が会話において非常に重要な役割を果たしていることには気づきにくい。僕が相槌を打つときは必ず「本当にそう思ったときに、同意の気持ちを伝える意図」で「そうですよねぇ」とかいう言葉を発する。

 

極端な話「無意味が嫌い」とまで思って生きてきた。でも「無意味」だけど「音が有る」状態というのがどうやら凄く重要みたいだぞ、と昨日思ったのだ。

 

それで、ようやく本記事のタイトルに関連づくのだけど「能という伝統芸術」を観てみたくなった。おそらく「音がある」という状態を芸術に昇華させた文化なのではないか?と、今回のRさんの会話のスタイルをみてふと思ったからだ。

 

かなり何年も前、能を趣味で演舞する知り合いに、「能の良さ」について聞いたことがある。それによると「能」は、その場に居合わせるだけで、インスピレーションが湧き、新しいアイディアを思いついたり、恐怖をやわらげたりという効果があるのだそうだ。

 

血みどろの戦国時代に武将たちがこぞって能を鑑賞したのもうなずける。明日の戦で自分は死ぬかもしれない、その瀬戸際の時に能に触れることでインスピレーションを高め、恐怖を和らげ、ベストな状態で戦闘に臨む、そういう機能を能が果たしていたのだろう。

 

Rさんの相槌の打ち方は「能の起源」のようなものなのではないかという気付きを得た昨日のことは、僕はずっと忘れないだろう。