aとtheの違い ~参照するコンテキストの射程距離の差~

英語を学んでいて最も戸惑うことの一つは、(日本語ではあまり意識することのない)aとtheの区別だろう。

 

様々な英語教材・教育現場において、その区別が「どんなものであるか?」が教えられるが、「なぜその区別が存在しているのか?」についてはあまりよく教えられていないように思う。

 

少しテーマからそれるが、私たちが歴史を学ぶとき、それをas-is、すなわち特段の理由なしに「あるがまま」を受け入れて覚えることは不可能なことではないものの、それがそうなった経緯・理由が分かると格段に覚えやすさが高まる。それは人の記憶機能がエピソードや理由が伴ったときによく発揮されるようにできているからだろう。

 

多くの国で、幼少期・少年期に義務教育が課されている一番の理由は、人は幼少から年少の成長段階においては、経験を踏まえたり理由を添えたりすることなく「あるがまま」をそのまま受け入れることが容易だからだろう。人は大人になるにつれて、前経験への参照を必要とする度合いが高まっていく。

 

それはそうにしても、私は中学生という比較的年少の時分においてさえ、aとtheの違いをas-isで受け入れることは難しかった。おそらくそれは、幼少から年少の早期において既に社会的な経験によって包摂された何かによって理解が阻害されうるものの一つなのではないかと感じた。

 

最近、私がハマっているとあるオンラインゲームには公式のオンラインコミュニティフォーラムがあり、そこで様々な意見を交わすことができ、ゲームにハマるとともに私は頻繁にそこでの議論に参加しているのだが、その経験で得たのは、英語を使う人たちはそれほどaとtheの違いに敏感ではないという感触だ。そしてまた、英語と日本語の大きな違いとしての、単数形と複数形の違いや、1・2人称と3人称(における動詞活用形)の区別なども、あまり意識されないように思う。ネイティブな読み手にとって、もちろん違和感は感じているはずだが、議論の致命的なところでそれが誤解を招く要因となることはほとんどなさそうであった。

 

しかし面白いことに、英語を頻繁に数か月使っていると「aとtheの違い」や「3人称における動詞の活用形の区別」や「単数と複数の区別」を違えることについて自分自身が違和感を感じるようになっていった。

 

例を示そう。

 

日本語)

J1) 公式発表、遅れてるね。何考えてるんだろう?

J2) 公式発表、遅れてるね。どう思う?

J3) 公式発表があるらしいよ。どうなるかな?

 

英語)

E1) The official announcement is delayed. What do they think of?

E2) The official announcement is delayed. What do you think of?

E3) I heard an official announcement is to be present. I wonder how does it go.

 

共通して、日本語では主語が省略されている。また、E1とE3の間には「aとtheの違い」があるが、J1とJ3の間でそれは明示的には表現されていない。さらに、J1~3では3人称単数における表現上の区別が無い。

 

では、これをわざと表現を逆転させてみよう。

 

日本語)

J1') 例の公式発表、遅れてるね。彼らは何考えてるんだろう?

J2') 例の公式発表、遅れてるね。君はどう思う?

J3') 何か一つ公式発表があるらしいよ。それってどうなるのかな?

 

英語)

E1') Official announcement(s) (is/are) delayed. What (does/do) ??? think of?

E2') Official announcement(s) (is/are) delayed. What (does/do) ??? think of?

E3') ??? heard official announcement(s) (is/are) to be present. ??? wonder how (does/do) ??? go.

 

 日本語のほうは、文法的な間違いというほどでもないがなんだか「クドい」。英語のほうは、そもそも文法的に成立させにくい。日本語のほうに感じる「『いわずもがな』なことをあえて言ってる感」はどこからきているのだろう?

 

おそらく日本語の会話においては、その公式発表が「例の」ものであろうが、何か新しいものであろうが、それが一つであろうが複数であろうが(?)、それは「どうでもよい」ことである。何かを指し示すとき、それが過去の文脈上に存在しようがしまいが、ぶっちゃけどうでもよい。

 

「われらコミュニティのだれかのコンテキスト」にそれが存在しさえすればよい。という感覚が日本語特有のものではないかと思う。そしてもっというと、それらの存在するコンテキストのいずれもが基本「同調している」あるいは「いつか同期する」ことを期待する。

 

対して、英語においては「わたし」と「あなた」と「ここ」こそが、目下いちばん先に参照すべきコンテキストであり、そのコンテキストに入っているか否かは言葉のセマンティクスを左右する事項だ。そしてその他のコンテキストについては、それらが基本「相異なっている」ことを前提とする。

 

その前提に立ち、異なるコンテキストにおいて「少ない表現コスト」で「見分けやすさを高めやすい」ものはなんだろう?思うに、それこそが「三人称単数の強調」、「単数・複数の差」、「aとtheの差」なのである。

 

まず、複数人称を区別することは表現コストが比較的重い。複数の個体を束ねたコンテキストはもともと「個体差が薄れた何か」になりやすい。そのため、もともと差が生まれにくいものを区別するのに何らかの表現を持ち込むのはあまりコスパがよくない。

 

対して、単数の人称はそれが個人のコンテキストを参照するマーカーとなるため、小さな表現コストで相異なる可能性の高い参照先のコンテキストを区別しやすくなる。

 

「単数・複数の差」や「aとtheの差」も、参照先のコンテキストが「誰のもの」か「誰と誰のいつのどの会話のもの」かをコスパ良く指し示すための表現手段に他ならないのだ。

 

まとめると、日本語では「同調を期待できるコンテキストがあまたに存在する社会においてコミュニケーションをとる」ために、コンテキストの区別よりも「われわれ(と同期しうるいずれかのコンテキスト)」がどうであるか・なんであるか・どうするのかを問うのに対し、英語では、「相違を前提とするコンテキストの間で、コミュニケーションをとる」ための効率よい表現手段として、「aとtheの区別」「3人称単数の強調」「単数と複数の明示的な区別」が導入されているのだ。

 

これがいまのところの私の理解なのであるが、どうだろうか?