小説の「語り」における人称コントロール、およびモダリティ

僕は文章を書くのが趣味で、こうしてブログを書いたりしてるのだけど、その趣味が高じて小説も書きたくなりチャレンジしてる今日この頃。

 

僕のブログにおける文章はいわゆる「評論文」的なテイストのものが多く、小説を書くことの難しさに直面してるのが現状。そこで本職でもあるプログラマーとして自分がプログラミングをどのように習得していったかを振り返ったときに「サンプルコードを読む」とか「オープンソースのソフトウエアのソースコードを読んで吟味する」とか色々と自分なりに培ったノウハウがあるので、それを「小説の書き方を習得する」という試みに応用できないかと考えた。

 

具体的には、(特に短編くらいの長さの)既存の小説を題材にして、それがあたかもgithubに上がっているソースコードであるかのように見立てて、その小説の文章をじっくりと吟味する、すなわち、その小説の作者になったつもりで、それぞれの文章パートにおいて「どのようなマインドで居れば、この作者のように実際にこの文章を自分でも書くことができるか?」という訓練に、最近は取り組んでいる。

 

そういうことをやり始めて、最初に気づいたことは、「人称(にんしょう)を自在に操るのが、プロの小説家は上手い」ということだった。僕が個人的に割と書きやすいジャンルだった「評論文」や「論説文」や「コラム」といった文章では、語り手がだれであるかはかなりハッキリしていることが殆ど(=すなわち筆者自身)だ。ときどき、筆者ではない人称が持ち出されて何かがそれによって代弁されるようなケースはあるけど、基本的には人称は筆者その人自身に固定されている。

 

しかし、小説では人称の揺れ動きがかなりあるということを、僕は発見した。それどころか、人称があいまいですらある。つまりその小説における主人公が主語なのかはたまた筆者が主語なのか、もしくはまるで映画のナレーションのように何かストーリーの語り部がその小説のために専任されていてそいつが語っているのか、そういういくつかのケースの複合的な曖昧さが、小説における「語り」の人称だったりするのだ。

 

なので、小説における「語り」は、映画の登場人物の語り(=脚本)とはピッタリ一致することはないし、また僕らが現実の社会や私的な生活において行う会話の仕方とは全然異なるテイストで書かれていることが多かったりする。

 

文章や映画や、それこそ日常生活をも「コンテンツメディア」と捉えるなら、そのモダリティ(伝達表現手段の種類)の違いによって「語り方」が全然違うのだ。そして、各モダリティにおけるその「語り方」はそれぞれのモダリティにふさわしいやり方で表現されているのだ。

 

だから小説家と脚本家は同時に出来る人もいれば職業として別々だったりするのだし、映画や舞台芸術における「演出家」が美術館におけるキュレーターとは少し違う職業であったりするのだろうし、モダリティはその表現方法について大いなる違いをもたらす。

 

ああ、小説を書くノウハウについての話をしていたのだった。で、とりあえず僕の好きな作家の書いた短編小説集を数冊、プログラマーの自分が「リバースエンジニアリング(=設計図のない機械装置を分解して、その設計を再現するようなこと)」のように読み込んでいった結果、とりあえずその人称については勘所が大体つかめたように思う。

 

ちょっと長くなってしまったので、記事を分けよう。今日の所はそんな感じで、小説においては「語りの人称性」が評論文とかと比べると割と重要で、それについてのノウハウは小説というジャンルに限らず映画とかTVドラマとかはたまた楽曲における歌詞とかに至るまで、モダリティ毎に色々な相違があってしかるべきなんだ、という話までにとどめておきます。

 

「小説の書き方について自分なりに理論体系化を試みている」という話について、続編を次回のエントリで書こうと思います。