昆虫の偏光視覚とクオリア

昆虫の偏光視覚

光(電磁波)には偏光という性質がある。人間の視覚はそれを認識できない。人間の目はハードウェアとして偏光センサを備えていないからだ。昆虫の目、とくに複眼には、偏光を認識できるものが多くある。

 

人間は、波長を「色」という感覚で知覚できる。光の強さ(振幅の大きさ)も、「明るい、暗い、まぶしい」といった感覚で知覚できる。

 

昆虫は、偏光の感覚を、どのように感じているのだろうか?

 

人間にとっても、色と明るさは、まったく別の種類の感覚だ。明るいことと青いことは、まったく別の概念(形容詞)だ。では偏光はどのような形容詞で表現されるのだろう?

 

偏光サングラス

釣りをする人が、水面のまぶしい反射光を低減して周囲を見るために偏光サングラスを着けることがある。本来、偏光には「偏光角度」があるが、偏光サングラスは望ましい偏光角度以外をカットするサングラスだ。通常、両眼ともフィルタする偏光角度は同じである。

 

昆虫の複眼は、さまざまな偏光角度のフィルターを寄せ集めたような「多数の偏光サングラス」のような構造をしている。そこでセンシングした光を、同時刻に知覚するのである。まず目が3個以上ある身体という感覚が、人間にとって異次元である上に、偏光感覚まで存在するのだ。

 

では、人間も両眼で異なる偏光角度を持つサングラスを四六時中着けて生活をすることで昆虫の感覚に少しでも近づくことは出来るのだろうか?

 

そこまでしなくても、偏光サングラスを使うことで、いままでにない独自の感覚を覚えることは可能なのだろうか?認知科学的な研究についてグーグルでざっくり検索してみたが、そのような研究を見つけることができなかった。

 

ソシュール言語学

ここで話が飛ぶが、言語学者ソシュールは「言葉と意味の結びつきは恣意的である」という仮説を立てることで、いろいろな言葉の機能や現象を解明する方法を提案した。

 

「色」と「味」が異なる感覚であることは主観的には当たり前のことだが、それが「客観的にも異なる」ことは本当は当たり前のことではない。

 

色と味の区別ができない人の存在は、想像するのが難しいけど、「そういう人がいたらいたでしょうがない」気もする。

 

でも言葉と意味の結びつきが恣意的なのにもかかわらず、多くの国の言語で色と味を「言葉として区別」しているのだから、「色と味の違い」は人類に共通のいわば物理学とかに匹敵するレベルの「客観的な事実」だと認めてよいだろう、ということになる。

 

そんな感じで、ソシュールの理屈を使うと、「主体的な経験」と「客観的な事実」を結び付けることができる。

 

しかし昆虫は言葉がしゃべれないので、言葉の違いから感覚の違いを観察するという方法が使えない。それでも偏光という感覚は存在しうるのだろうか?

 

クオリア

「色」や「まぶしさ」や「味」といった感覚を指すのにクオリアという用語がある。

 

「使う言葉(形容詞)の違い」とか、「刺激に対する反応の違い」とか、客観的に得られる事実(実験事実)から、内的な経験(知覚や認識)の存在を分析する、認知科学という分野がある。

 

哲学の認識論では、実験に基づく方法だけでなくより様々な考察の仕方で知覚や感覚にせまるが、認知科学はその科学バージョンである。

 

クオリアという用語は、そのような科学的な方法では客観的な存在を証明できないような感覚も含めて考察したいときに使われる。こういう用語を使うと、昆虫の偏光感覚の存在についてとりあえず「語る」ことができる。つまり誤解を恐れずに言えば、「霊」とかと同じような使われ方をする用語である。

 

どうしてそういう非科学的な用語を科学の文脈で持ち出すのかというと、どこまでが今のところ科学的に説明できていて、どこからが出来ないかという境界線について語るときに便利だからである。

 

哲学は、科学的な方法でない考察も許容するが、科学的な根拠がないのにもかかわらず「普遍の真理」について考察する「形而上学」という「哲学のタイプ」がある。霊とかクオリアは、形而上学的な用語である。

 

偏光感覚の存在証明

そういう感じで、昆虫が独自の偏光感覚を持っているかどうか、それが種を超えたクオリアなのか、さらにそれが認知科学的に存在を証明されうるのか、まだまだ分からなそうである。

 

分からないなりに用語や概念を使って「わからなさ」について本記事のように「語る」ことが出来たりするところが、この手の話のちょっとした面白さかもしれない。

 

2020年代のAIソフトウェアビジネス5ヶ条

「AIブーム」もこなれてきて、いろんなソフトウェアベンダが「もう少し突っ込んだテーマ」を探しているように見えます。

本記事では2020年代のビジネスモデルとソフトウェアをどう作りどう使ったらよいか、その考え方について5箇条という形で書いてみます。


第一条 ドメイン知識を「APIを組み合わせるノウハウ」に変換すべし

GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)がグローバルプラットフォームの上で安価なAPIを提供してくれるようになったおかげで、ソフトウェアを作ることはAPIを組み合わせてインタフェースを作ることとほぼ同義になりました。

もはや、世の中の99%の企業にとって「AIは作るものではなく使うもの」になりました。「AIを使うノウハウが大事」な時代になったことは自明でしょう。それはすなわち「APIを組み合わせるノウハウ」のことです。

APIの裏側で動く高度な数学の知識を知る必要は99%ありません。


大事なことはAIの仕組みというより、「APIの機能」を理解できるエンジニアがいて、自社の業務をそのAPIを使って自動化することです。


AIに詳しくない経営者にオススメなのは、GAFAが提供しているAPIの機能について、エンジニアに調べて報告させて、それらを組み合わせて自社の業務を自動化する方法を考えることです。もしくは、エンジニアに業務の全体フローの概要を教えて、APIの組み合わせて自動化できる部分がどこかにないかを検討させることです。

そういう取り組みは、1,2年では目に見える会社の業績に表れることは少ないかもしれませんが、今後の10年くらいでボディブローのように効いてきます。

 

第二条 無人ビジネスが標準で、有人ビジネスは「プレミア版」と考えるべし

これまでにも当然、自社の商品やサービスをWebやアプリ(eコマース)で売ったり、サポートをインターネット(WebサイトとかメールとかLINEとか)で行ったりというチャネルのオンライン化には取り組んできていると思います。

しかし、2020年代に重要なのは、そういう部分的なオンライン化ではなく「完全なオンライン化」です。

それは本質的に以下の自明な2つに起因します。

  • コロナ禍や少子高齢化のせいで「人が移動するコスト」が相対的に深刻化した
  • 完全無人化(AI化)の前段階としてそもそもビジネスが完全にオンラインである必要がある

コロナ禍で人が動きにくくなったり、少子高齢化のせいで少ない労働人口で経済を回していかなければならなかったりと、「人の移動コスト」は今後大きくなる一方です。

なので部分的に「人が動く」、すなわち「完全オンラインではないチャネル」は今後むしろ「人が動くというプレミア価値」を上乗せしたビジネスモデルに移行していく必要があります。

つまり、人件費を不可避のコストとしてみるのではなく、完全オンライン化・完全AI化によってコストをゼロにし、むしろ人件費を「プレミアサービスの構成要素」ととらえる視点が必須となります。

同じこともう一度言うと「多くのビジネスが無人化していくのが当たり前の時代」において、「人件費とはコストではなく付加価値の構成要素」です。

 

完全に無人化されたビジネスの時代において、売り手に人が関わることは「むしろプレミア」になります。そうなったときに、そのプレミアが具体的にどうのような付加価値を提供するものになるのかを、今のうちから考えて試行錯誤し、自社にあったプレミア価値というものを早期に見出していく必要があります。

これはAIや数学の問題というよりも、むしろ人間科学や哲学思想の分野に帰着される問題です。自社の商品にとって、それを無人で売ることと有人で売ることの間に「本質的にどんな違いがあるのか」を徹底的に思考・検証し、それにふさわしいソフトウェアがなんであるか考えて、導入や開発をすべきでしょう。

 

第三条 良い機能よりも「良いインターフェースにお金を使う」べし

APIGAFA等の大手プラットフォーマが提供したものを使うだけで99%事足りるのでした。

さらに「ソフトウェアの機能」の重要性も今後薄れてきます。

DXとかデジタルトランスフォーメーションとか言われていますが、これは要するに企業の業務フローやビジネスモデルをソフトウェアとつじつまが合うように再構築することがこれからは大事で、なぜならソフトウェアの機能によって解決できる部分はここ30年ほどで大体解決してしまったからだ、ということですよね。

例えば、エクセルの無い時代に経理担当者が紙で簿記をしていたら、エクセルという表計算「機能」を持つソフトウェアを導入することで、効率を大きく向上させることが出来ました。

商品在庫や受発注などの記録を紙で処理していた時代に、ERPやデータベースという機能を導入することで、効率化が進みました。

そうしたこれまでのソフトウェアの導入において注意すべきなのは「自社の業務モデルを本質的には変えていない」ことです。インターネットやWebの普及で、新たにヤフーや楽天やLINEといった大手が生まれたのは、それまでの大手がビジネスモデルを大きく変えなかったことの証拠でしょう。

 

そういう感じでソフトウェアベンダーはこれまで、多くの会社の業務に共通するような機能を開発し、多少のカスタマイズを加えて提供することで儲けてきました。

そういうパイがなくなってしまったため、企業の根本的な業務モデルの変革を訴えて、そこにソフトウェアを差し込もうということでDXとかデジタルトランスフォーメーションとか言ってるわけです。

それは確かにソフトウェアを売りたいベンダ側の「勝手な都合」でもありますが、実際問題としてDXは確かに「やるべきこと」です。

 

その時に大事なのは、機能ではなくインタフェースが持つ付加価値にお金を使うことです。

第一条でも言いましたが、機能の99%はGAFAが提供するAPIを使うことで実現されます。

 

それでも世の中のソフトウェアはベンダがベンチャーであるか大手あるかは問わず、いろいろな機能を売りにしています。ぶっちゃけそれらの「機能の違い」は、GAFAが提供するAPIから見たら1%くらいの違いしかありません。

どのベンダも同じようなAPIを使って機能を作りこむので、実際にソフトウェアが役に立つかどうかは、「インターフェースの違い」によってもたらされます。

もし新たに自社業務で自動化したい、あるいはソフトウェアを導入して付加価値を高めたい部分があったなら、製品やサービスを選ぶときにインタフェースの良しあしで選ぶべきです。

 

もちろん、自社独自で専用のオリジナルシステムを外注開発することを検討しても良いでしょう。機能の99%はAPIで安価に使える時代なので、「使いやすいインタフェースを作ることに」コストをほぼ全振りすることで、巷の製品やサービスよりも(自社にとって)使いやすいものが出来上がる可能性は低くありません。

仮にGAFAAPIを全く使わなかったとしても、ソフトウェアを開発するときに最もコストが掛かるのは機能ではなくやはりインタフェースの部分です。APIがなくても、オープンソースの「無料ライブラリ」がもう溢れかえるほど存在するので、ソフトウェアを作ることはそれらの無料ライブラリを組み合わせてインタフェースを作ることとほぼ同義です。

 

第四条 「自社がシェアNo.1のカテゴリ」を見出すためにデータを分析すべし

顧客満足度No.1」という宣伝文句をよく見かけます。これはあるカテゴリの商品においてライバル商品よりも好評だということでしょう。

しかし、そもそも商品のカテゴリというものはいくらでも細分化することが出来ます。例えば、男性用化粧品を製造するメーカは、化粧品市場全体から見れば比較的小さな存在かもしれませんが、もし男性用化粧品で一番売れていたらシェアトップなわけです。そして、男性用化粧品でもトップではなかったら、さらにカテゴリを細分化することで、自社がシェアトップになるようなカテゴリを必ず見つけることが出来ます。

 

なぜなら、自社の商品を買ってくれる人は「その人にとっては」他社の商品より自社の商品のほうが良かったわけですから。

そういう顧客が一定数いる限り、その顧客集団こそが「その商品がトップであるカテゴリ」です。

 

この当たり前の事実は、AIソフトウェアの時代に意識すべき重要な事実です。自社がトップであるということは、(小さいかもしれないが)そのカテゴリにおいて「GAFAよりも強いデータを持っている」ことになるからです。

グローバルでないローカルなビジネスが、グローバルプラットフォーマに食われないで生き残れる理由のほぼすべてが、そこにあります。

企業にとってのデータ分析には、コストを減らす目的と、インカムを増やす目的の2つがありますが、インカムを増やす目的で行うデータ分析のほとんどが、この「自社がトップであることを示すデータ」を中心として行われます。

 

データ分析という技術は、発想の飛躍とかひらめきとかをもたらすことが出来ず、今存在する事実をあぶりだして横に広げることしかできません。強力な技術ですが、万能ではないわけです。

 

自社がどのようなカテゴリでNo.1なのか?、仮にそれが分かったとしたら、なぜNo.1なのか?、そしてそれをさらに広げるにはどうしたらよいのか?そういうこと調べるときにはデータ分析という技術を強力な道具です。

もちろん、在庫管理の最適化や人事管理や財務管理といったコスト面での最適化にデータ分析を活用することも大事です。

しかし経営者にとってより興味があるのはコスト削減よりもインカムの増大のほうなのではないでしょうか?

 

第五条 自社で育てたAIを再販するソフトウェアベンダを目指すべし

例えば園芸用品を扱うEコマースを経営していたとします。個々の園芸用品は安価なものが多いかもしれませんが、Eコマース上にコミュニティを作り、園芸発表会やノウハウの講習会などの付帯サービスのほうで儲けるようなビジネスモデルで結構うまくいっている(社員十数名で年商数億で利益が数千万とか)とします。

このビジネスモデルは園芸用品だけに限定されるものでしょうか? 本当にそのような会社があったら、すさまじいポテンシャルを秘めています。

まず、園芸は「高齢者でも出来る趣味」であり、部屋に鉢植えの観葉植物を飾ることも含めて広い意味で園芸とみなすならば「敷居の低い」鉢植えから、「敷居の高い」咲かせるのが難しい花まで幅広い顧客を持っている可能性があります。新規の顧客をつかんで育てて定着させるノウハウを持っている可能性が高いです。

 

ではちなみに、GAFAは「高齢者でも出来る趣味を題材としたビジネスに特化したAPI」を作るでしょうか?

私は、作らないと思います。もしやるとしたら、もっと世界中の高齢化社会という状況に共通に当てはまるような何らかのグローバルインフラを作り、そのAPIの一つを作るという流れになると思います。


どんなビジネスも、それが成立している(かかる経常的なコストよりも入ってくる経常的な収益のほうが大きい)限り、そこには客観的な論理によって説明できる理由があるはずです。

もし、なんだかわからないがうまくいってる、という場合は、(第四条に書いた通り)今すぐその理由を分析すべきです。


これまでの時代のソフトウェアの機能は、ビジネスモデルに依らない業務、どんなビジネスモデルにも必ず存在するような業務に対して効率化をもたらすものでした。

しかし今後、2020年代における高付加価値なソフトウェア機能とは、より個別のビジネスモデルのパーツレベルまで切り込んだ機能を提供するものになります。

 

「高齢者でも出来る趣味」を扱ってる企業なら、顧客の可処分所得の分布やECサイトアクセス時間から分かるインターネット接触時間、初めて商品を買ったときから定着するまでの王道パターンといったノウハウがロジカルに蓄積できることでしょう。

 

それをAPI化してソフトウェアビジネスとしてさらに儲けることができます。

2010年代に、垂直SaaSが有望テーマだといわれました。実際に薬局向けのSaaSを提供して儲けているSaaSベンダいたりとか、垂直SaaSは今後も有望な分野です。

そこまでの「専業ソフトウェアサービス業者」にならなくても、再販可能なソフトウェアのパーツを作ることは可能な時代になっています。何回も繰り返しになりますが、GAFAAPIを組み合わせるだけだからです。

 

顧客をそのまま横流しすることはWebのクッキーマッチングの倫理や個人情報保護の観点から好ましくありませんが、「高齢者趣味ビジネスにおける顧客育成理論」をソフトウェアとして実装することは問題ありません。

これは、GAFAにも作ることができないし、大手のソフトウェアベンダにも作ることができない(作っても相対的に売り上げが小さいから作らない)でしょう。

「顧客育成理論」や「顧客状態推定理論」、「顧客コミュニティ運営理論」といったソフトウェア化可能なロジックは至る所で見出すことが可能です。

自社商品を使った趣味の成果を披露するコンテストはどのくらいの頻度で開催したらよいでしょうか?年1回でしょうか?半年ごとでしょうか?オンラインでやるべきでしょうか?リアルな場所をセッティングすべきでしょうか?

こうしたノウハウは、GAFAが提供するAPIを「使って作られるAI」に蓄積され、それは再販が可能なAIになるのです。


このようにAIは階層構造を持っていて、GAFAが提供するのはその最上位層の機能なのです。

 

究極的には、自社商品の提供はぼぼ利益ゼロで、専らデータを集める、顧客実験の環境を作り上げることだけを目的にし、実際の儲けはそうやって作ったAIの再販によって得るというモデルも実現不可能ではないでしょう。

もしそのようなモデルで儲けることが出来たら、それはまさに2020年代の最先端を走るやり方であり、メディアに無料取材させることで無料で多くの人に宣伝し、さらにそのAIの再販を加速することが出来るでしょう。


というわけで

ところどころかなり極論が混じってますが「当たらずとも遠からず」という印象を持ってもらえたのではないかな?ということで書いてみました。

 

ではまた!

数学力と国語力と「稼ぎ」の関係

数理資本主義の時代?

経済産業省のこのページのpdfを興味深く拝見しました

www.meti.go.jp

 

要するにこの報告書は、日本の(対外的な)経済競争力を維持・向上させるために高い数学力をもった人材の拡充の必要性を訴えたものだ。

 

日本という国レベルでみると確かにそうだろうけど、個人のレベルでみると数学を勉強することで年収がアップしたり条件の良い企業に転職できたりするものだろうか?

 

本記事は、総論として先に要約しておくと、数学の素養には

  • (A)問題を厳密に定式化する技術としての数学(直接的な素養)
  • (B)物事を一般化したり論理を構築する方法としての数学(間接的な素養)

という2つの側面があるが、上の経済産業省の資料ではその2つを「どちらも重要」として優劣をつけていないが、

  • (A)はグローバル競争の中で活躍する人材にとって特に必要(短期的にも長期的にも重要)な素養だが、万人にとって必ずしも重要とは限らない
  • (B)は確かに誰にとっても重要だけど、短期的には不要あるいはコスパが悪く、長期目線でコツコツやって初めて意味を持つ大変な素養である

なので、個人レベルでは自身の置かれた立場と考える時間軸によって優劣をつけて考えるべきである、という内容になる。

では、以下ではその各論を述べる。

 

数学よりも国語じゃないの!?

まず私が個人的に思うのは、上の経済産業省の資料にあるような「数学力」が収入等に直結してくるのは「グローバル企業」の社員、すなわちグローバルに競争している企業(ベンチャー含む)やそうした人材に限られる、ということだ。

 

日本の企業に勤めるサラリーマンの大半(主観的な見積もりとしては、9割以上)にとって、同一労働に対する賃金は世界レベルでみて非常に高く設定されており、もし本気で数学を学んでグローバル競争の世界に身を移そうとしたならば、通常は収入や待遇はむしろ圧倒的に低下するのではないだろうか?

  

私自身はそうしたグローバル競争にさらされた企業に勤めた経験がないため、自分の数学的な素養が仕事で生かされて収入が増えたり待遇がよくなったりといった経験はほぼゼロである。むしろ仕事に直結したのは国語であった。

 

社会人として働く中で、コミュニケーションは非常にボトルネックとなりやすいポイントで、一緒に仕事をしていても経験や価値観の異なるもの同士が協働しているために、情報を正確に過不足なく共有することは非常に重要となる。その際に、数学よりも国語が重要である。

 

相手が知っていそうなことに喩えて説明することでスムーズに情報を伝えたり、話の流れの中で相手と自分の認識の差に気づいて早めに前提条件の合意を形成するよう立ち止まって確認したり、といったことが効率的に業務を進める上で重要である。

 

それでも、数学を学ぶことによって鍛錬されるイメージとか論理的な処理能力とかが業務上の課題を解く際に間接的に生かされるのではないか、といったことも「数学を学ぶ意義」としてよく言われる。しかし、それは少なくとも短期の目線では「その目的にとっては数学はオーバースペック」ではないかと個人的には思う。

  

技術職の専門知識を支える土台としての数学力

(グローバル競争にさらされているとは限らない国内のふつうの)技術職にとってはどうだろう?例えば電気工事士とかにとっての数学力については、どう考えたらよいだろう?

 

業務上で必要な専門知識について考えると、大半は高校レベルまでの数学で十分対応できることが多いし、特別に大学レベルの数学が必要とされるような(例えば電気エンジニアにとっての回路理論とか)が業務上必須になるようなものについては、大学でその分野を専攻していれば真っ先にカリキュラムに組み込まれていて最低限それを習得しないとそもそもその学部を卒業できないようになっている。

 

つまり理系として大学を卒業した時点で仕事で使う専門知識を学ぶ上でどうしても必要となるようなレベルの数学については十分学べており、仮にさらに高度な数学がどうしても必要となるような先端の業務に従事するような場合、業務時間を使って給料をもらいながらそれを習得することが十分に正当化されるケースがほとんどである。すなわち、専門技術を扱う企業といえども、その多くの業務が、そのような数学力を持たない人材を前提として組み立てられて経営されている

 

グローバル競争にさらされた業務でない限り、高度な数学力を最初から備えているかどうかが個人レベルでの稼ぎを左右するわけではないのだ。

 

経済産業省の求める数学力」 vs 「『社会の仕組み』的な思考力」

上記の経済産業省の資料で書かれているような数学力とは、グローバル競争にさらされた技術人材にとって必要とされるような高いレベルの数学力のことを指しており、それが現時点では個人の自主的な勉強にゆだねられていることを問題視している。それゆえ、行政官によって作成された資料の中でそれが行政上の課題として提起されている。

 

数学の理論はいずれも一分の隙もないよう精密に組み立てられており、それを正確に理解するには普通はじっくりと時間をかけて議論の1ステップずつを吟味したり概念について自分の考えを巡らせたりする必要があるものだ。その見返りとして得られるのは「他人がだれであろうとも、正しく組み立ててあることが保証された論理」である。つまり、ある意味で他者という存在への依存性を排除することが数学が持つ本質的な性質である。

 

それに対して、新聞の論説文を読んだり、知識人の書いたコラム等の文章を読んで自分の意見との対比を考えたり思考を深めたりといった国語的な鍛錬では他者の想定が論理構造に本質的に組み込まれている

 つまりAIに自動で仕事をさせるといういわば「業務の無人化」を考えるレベルで初めて数学が本質的に重要になるのであって、人が直接業務にかかわっている限り大切なのは国語だということである。

 

そしてその業務の無人化というカテゴリでさえ、数学力よりも単にプログラミング力、あるいはもっと抽象的に「システムについて考える能力」によって解決できる場合もすごく多い。

それは高度な数学力によってというより、むしろ様々な「社会の仕組み」を知っていて、それをシステムの上に上手に模倣できることによって直接的に問題が解かれる、ということのほうが圧倒的に多い。そうした「社会の仕組み」を知るうえで重要なのは数学力よりもむしろ国語力である。

 

数学を学ぶことは「長期的」な視点で初めて意義を持つ

では経済産業省のような国策・行政をわきにおいて、一人の職業人として数学を学ぶことはどんな意義があるのだろうか? 

 

それは、5年とか、あるいはもっと10年とか、そういう長期の目線で効いてくるものなのではないかと思う。

 

国語力は考えを他人に共有する技術なだけであって、問題の中身がなければそれは仕入れた情報のコピーを横流しするスキルに過ぎない。

中身は、経験(仕事だけでなくプライベートでも例えば旅行とか友人や家族とのかかわりとか)や、教養や趣味、思索や自問自答による自分の思想によってもたらされる。

 

そのような「中身」の問題について考えたとき、数学は(それと個人的には哲学も)は劇的な影響をもたらすものだと思う。もちろん、数学に限らず、物理学あるいは音楽やダンス、スポーツや芸術、なんでもそうかもしれないが、数学の特殊性として

 

「流行とかに左右されにくい」「やっただけ積みあがる」「やっただけ世界が広がる」「お金があまりかからない」

 

という点があげられる。つまり「長期的に取り組むテーマ」としては数学は非常に優秀なテーマだ。

 

そういうわけで

国策として数学力が重要という点は分かるけど、それって一握りの人向けだよね、僕を含む多くの人にとって数学はそんなすぐに稼ぎに直結するような類の素養じゃないよね、それでも長期的に考えるとやっぱり数学は人生に「中身」を与えてくれる良いテーマだよね、という話でした。

プログラマのための熱力学入門

はじめに

プログラムを書けるレベルの論理的思考力を持った人(全世界の5~6割くらいの人が当てはまると思われる)に対しては、数学や物理学等における概念を容易に説明できるはずだ、という信念がいつの日からかふつふつと湧き上がってきた。

本ブログによる一連のシリーズはそれを実際にやってみようという試みである。

熱力学の動機

19世紀頃、それまで人類は馬や牛などの動物を働かせて少々のラクをすることは出来ていたものの、基本的には人の労働力によって多くの仕事をこなしていた。

しかし、蒸気機関のような「燃料を労働力に変える技術」が実用レベルに達したことにより、産業革命が起こった。人類全体の富は爆増した。

そんな時代に多くの物理学者たちが、「燃料(すなわち熱)」と「力」の関係を体系的に説明する物理法則を整備しようと、実験および理論的考察を繰り返した。

そうして完成したのが熱力学という理論である。


熱力学の成果として最もメジャーなものは「エネルギー」という概念である。日常生活でも普通に使われるなじみ深いこの概念のおかげで、熱力学の勉強が捗りやすくもなるが、逆にその日常イメージによる先入観が熱力学上の諸概念の理解を妨げることもしばしばあるので注意を要する。

熱力学的な「平衡状態」

熱力学で第一に重要なのは「平衡状態」という概念である。これは簡単であり、物質が変化している途中のことは「理論の適用対象外」として考えず、物質が安定している、すなわちほっといても変化しないような状態のことだけを考えようということで導入された概念である。

物質は一般には変化に富むものであるはずだから、そのような平衡状態に限定したような理論はあまり便利ではないのではないか?と思われるかもしれない。

しかしそうではないのである。というのも、

「物質が変化する前の『平衡状態』」と「その物質が変化した後の『平衡状態』」の間の関係については熱力学の適用対象となり、うまく説明することができるのである。

ここが熱力学という理論における最大の「なるほどポイント」である。

「うまいこと要件を絞ったなぁ」と思わないだろうか?

本記事では以降、「状態」といった場合、それは平衡状態のみを指すことにする。

状態は何によって決まるか?

2つの状態Aと状態Bが「同じか?それとも異なるか?」はどうやって見分けたらよいだろう?

例えば、200ミリリットルの水と200ミリリットルのお湯は「同じ状態」だろうか?

直感的に、違うだろう。両者の温度が違うのだから。

では同じ温度と体積の物体があったとして、圧力が違ったら状態は異なるのだろうか?

そもそも、温度と体積が同じなのに圧力だけが違うようなことがあるのだろうか?

これについては、物理実験をしてみないと何ともいえない気がする。実際、物理学者たちは色々な実験を行って、何によって状態が決まるのかを突き止めようとした。

「色々な実験」という言い方は曖昧なので、以下のようにちゃんと定式化しよう。

  • 「物理量として圧力や体積や温度や質量、さらには重力や磁石や静電気やいろんなものが考えられる。その中でまず熱力学的な物理量X1,X2,...,Xnというものを定める」

つまり熱力学と関係ある物理量を弁別し、その上で、

  • 「熱力学的なn個の物理量X1,X2,X3,...,Xnのうち、全部ではなくそれより少ないm個(< n個)が決まればそれ以外がすべて決まるという法則性があるとき、その『m個の物理量によって状態が決まる』と結論付ける」ことを目的とする色々な実験を行った

ということだ。つまり各ケースで、状態を決めるのに最低限必要な物理量はどれかを突き止める実験や理論的な考察を行ったのだ。

組み合わせが膨大で大変そうに見えるだろう?実際、そうである。状態は実にいろんな表し方が可能であった。

なので、それらをどううまく整理したらよいかが大きな課題となった。そこで物理学者たちが採用した戦略は、

  • 「状態を表す標準パターンを決めて、それ以外のパターンは数式を変形することで(数学的に同値な命題として)得られるような法則として整理しよう」

というものである。そうすれば、最低限必要なパターンだけに絞って法則化しておけばあとは数式変形でご自由にどうぞ、となるからだ。

なかなかうまいこと考えたなぁ、という感想を持たれないだろうか? 実はこの、

  • 「根元的な法則としてはなるべく少ないパターンだけを決めておいて、そこから数学的に導かれる帰結として関連する派生法則を(暗に含む)理論を作る」

という戦略は物理学の常套手段なのである。ルネサンス時代から産業革命時代にいたる数世紀の間に、この戦略が成熟してきていたという背景があった。

その根元的なパターンを本記事独自の用語として「標準パターン」とでも呼んでおこう。

標準パターンは4種類のエネルギー的な物理量

さて、その標準パターンであるが、最終的に熱力学としては4つの標準パターンを用意した。この4パターンは、「根元的な法則」として4つとも必要というわけではなく、4パターンのうちいずれも根元的な法則として使うことができる。

いわば、理論を4つ作ったわけだ。なぜ4つも作ったかというと、どれも一長一短だからである。なので4つ示しておいてケースバイケースで自由に選んで使ってもらおうということだ。

この4つのパターンを区別するアルファベットを便宜的に導入しておこう。それぞれU,H,F,Gである。なぜシンプルにA,B,C,Dとしないのか!?と思われるかもしれないが、
記号の好みなんてなんでもいいじゃないか。受け入れよう。


さて、そのU,H,F,Gの4パターンの間には共通点がある。それは、そのいずれもが

  • 「単位がジュール(というエネルギーの単位)であるような2変数関数である」

というものだ。つまり「状態は2変数関数としてあらわされるような何らかのエネルギー量だ」ということだ。

例えばUパターンを説明しよう。これは「エントロピー」という変数と「体積」という変数をとる「内部エネルギー」という名前の2変数関数だ(エントロピーについては後で説明する)。Uというラベルは内部エネルギーの関数を表すのに典型的に用いられるアルファベットである。U,H,F,Gはみんなエネルギー関数でありそれらをまとめて「熱力学関数」と呼ぶ。

H,F,Gにはそれぞれ「エンタルピー」「ヘルムホルツの自由エネルギー」「ギブスの自由エネルギー」という名前がついている。もちろんいずれも単位は「ジュール」である。

ちなみに1ジュールは約0.24カロリーである。成人一人の一日に必要なカロリーが2000「キロ」カロリーくらいであることを考えると、1ジュールはかなり小さい印象を持つエネルギーの単位である。

ここまでの説明をまとめると、「状態は熱力学関数で表される」と一言でいえる。

以降では、4つの熱力学関数を一つずつ説明していく。その説明を読めば、なぜ物理学者たちが4種類も作ったのかが分かるだろう。


と、その前に、4パターン共通に説明できる部分として大切な概念である「独立変数と従属変数」について説明しておくことにしよう。

独立変数と従属変数

熱力学関数自体はいずれも何らかのエネルギー量だと説明した。ではその変数の候補としてはどんな物理量を使うのだろう?

圧力pや体積Vや温度Tといった物理量はもちろん候補に含まれる。その3つに加えてエントロピーSという物理量も理論上必要になる。
エントロピーについては詳しくは後で述べるが、ここでは圧力や体積や温度が「測れる量」であるのと同様、エントロピーも(測定の困難さはともかく)理論的には測ることが可能な量である、ということをとりあえず受け入れてほしい。

つまり、合計4つの物理量が変数の候補である。しかし前節で述べたように、熱力学関数は「2変数」関数なのであった。候補が4種類あるのに2変数関数でエネルギーすなわち状態が表されるとはどういうことだろう?残りの2つの候補はどうなるのだろう?


そのことを掘り下げるには、関数に「独立変数と従属変数」という概念を説明する必要がある。数式で表すと例えば、関数fについてxが独立変数でyが従属変数であるとは、f(x,y)=f(x)となることをいう。

つまり、内部エネルギーUにおいて、エントロピーSと体積Vが独立変数であり残りの圧力pと温度Tは従属変数であり、U(S,V,p,T)=U(S,V)と表されるということだ。

言葉で無理に表現しようとして難しい感じになってしまったが以上のことは「全微分」という概念を使うと次のように(より多くの情報をも含めて)かなりシンプルに表現できる。

dU = T * dS - p * dV

この式は、内部エネルギーという関数において

  • SとVが独立変数である
  • Tとpが従属変数である
  • UのSによる偏微分係数がTである
  • UのVによる偏微分係数が-pである

という4つの主張を一つの式で表した数式であり、見た目より情報がいっぱい詰まった数式なのである。

dという記号がついた「全微分」という数量は、解釈としては「微小変化」というイメージの数量なのだが、数学的にはそういうあいまいなものではなく「きちんと定義された数量」である。

どんな数量かというと、それは実は「ベクトル」なのである。引き続き次節で説明しよう。

微分は抽象ベクトルである

数学においてベクトル空間の理論が抽象的に定義されているおかげで、「微小量」のようなあいまいな数量概念を「全微分」という名の「抽象ベクトル」できちんと定義することができる。

ふつうの「数」の世界では、無限小という「抽象的な数」を足したり引いたりということをあいまいなく定義することは難しい。

しかし「抽象的なベクトル空間」の世界は、ベクトルの足し算や引き算や定数倍を定義することができる。そこで「無限小の概念をベクトルを使って表現しよう」というのが「全微分」という概念である。

そのように定義しておくと、「多変数関数の全微分」という操作を、「多変数関数からベクトルへの写像」として定義できる。

ベクトルを何か「方向と大きさを持った図形的な量」というイメージを持たれていたとしたら、ベクトルというものは案外それ以外のいろんな概念を表現するのに使えるのだな、という印象を持たれるのでないだろうか?

これはまさに数学の抽象化のもたらす力の賜物である。


熱力学では、U,H,F,Gという4つの熱力学関数のそれぞれと、p,V,S,Tという4つの物理量のそれぞれについて、頭にdを付けた合計8個の「全微分」という抽象的なベクトルを考えて、その間の関係をベクトル方程式である全微分方程式として記述した4パターンの方程式が基礎方程式になるのだ。


さてここで、

  • 「ベクトル空間だって?じゃあその次元は何次元だ?」

と思われるかもしれないので答えておこう。4次元である。

まず、p,V,S,Tの4つといずれかの熱力学関数1つで合計5次元となり、熱力学関数の全微分方程式(ベクトルの線形結合=0という形)によって1自由度減る。したがって5-1=4次元である。なので、いかなる全微分も4個の基底ベクトルの線形結合で表すことができる。そこで、一つ全微分をピックアップして、4つの基底ベクトルの線形結合で表し、両辺を積分すれば一つの4変数関数が得られるだろう。その関数のことを「完全な熱力学関数」あるいは「熱力学ポテンシャル」と呼んだりする。

また、熱力学においては全微分のことを完全微分と呼んだりもする。

 

なお、全微分をベクトルとみなす話にもし興味を持ったら、微分形式という数学を学ぶことをおすすめする。それは、全微分うしのベクトルの掛け算や、全微分のさらなる微分(外微分)、全微分積分、一般化された高次元版のストークスの定理、といった便利な数学的ツールがたくさん学べて熱力学だけでなく、ありとあらゆる数学・物理学・人工知能機械学習において使うことができる。 

不完全微分とは何か?

熱力学において全微分に対比される数量として、不完全微分というものがある。

不完全微分の代表的なものとして「微小仕事d'W」と「微小熱移動d'Q」がある。これは何かというと、確かに微小変化を表す数量ではあるけれども、全微分と違って、他の全微分との足し算や引き算の結果が全微分にならないような数量である。

通常、ベクトルどうしを足したり引いたりした結果は、ベクトルになるはずである。したがって不完全微分とは全微分たちがなすベクトル空間の中に仲間入りすることが出来ないようなベクトルとして不完全な数量である。

dにダッシュ記号がついてd'となっているところがポイントで、これは全微分ではなくて不完全微分ですよ、ということを明示するマークである。

不完全微分もベクトルと似た記号を使っていて、ベクトルと形式的にp*dV + d'Qのような足し算を無理やりして考えることができるが、その結果が何らかの必ず全微分になるという保証はない。

では何のためにそんな無理やりな足し算引き算を考えるのかというと、

「その後の自由な数式変形についての保証はしないけれども、ある特別な状況を説明をベクトル方程式として表現したい」

ときに便利なのである。

例えば温度と圧力が一定の時とか、特別な条件を加えると少しだけ別のベクトル方程式と組み合わせて数式を変形できることがあるのだ。

不完全微分は、条件付きで注意しながら数式を変形していかなければいけない数量で、時々全微分と足したり引いたりできるかもしれないという不完全な抽象ベクトルである。

エントロピー

さて、エントロピーの説明をしよう。これは非常に不思議な物理量であり、

dS = d'Q / T

と定義される。なんと不完全微分を(1/温度)倍したベクトルとして定義されるのである!dSは全微分なのに!

前節で不完全微分の「窓際感」を存分に述べた直後なので、急にこれはびっくりかもしれない。

定性的には「熱の出入りの相対的な大きさ」を表す数量であることが上の式からうかがえる。

なぜこれが全微分になるのかをきちんと説明するには、「準静的過程」と「カルノーサイクル」という思考実験における状態変化について説明する必要があり、短く説明するのが難しい。ここは熱力学の教科書に譲ろうと思う。散々引っ張った挙句、他所に丸投げというヒドいオチになってしまったことを深くお詫びする。

(ようやく)内部エネルギーの説明

さて、内部エネルギーについて説明しよう。

dU = T * dS - p * dV

なのであった。これは数学的にはこれまでさんざん述べたように抽象的なベクトルの方程式なのだが、ここでは物理学的な「解釈」としてdを「微小変化」と考えよう。

内部エネルギーの微小変化は、(1)温度にエントロピーの微小変化をかけたもの, から (2)圧力に体積の微小変化をかけたもの を引いたもの、であると主張している。

(1)は T * dS = T * (d'Q/T) = d'Q であり、(2)は p * dV = d'W (エンジンのなかのシリンダー中のガスがピストンを押す状況をイメージしよう)なので

dU = d'Q - d'W

と書き換えることができ、これは「内部エネルギーの変化は、外部からもらった熱から外部へした仕事を引いた残りある」という意味になる。

また、体積が一定すなわちdV=0の時はp * dV = 0, すなわちd'W=0となるから、

dU = d'Q

となる。つまり「体積が一定ならば内部エネルギーの変化は出入りする熱と同じである」という意味になる。

「内部エネルギーとは一定の体積を持つ物質に出入りした熱の履歴を合計したもの」と考えてもよいわけだ。

この何らかのエネルギーの出入りの「履歴」という考え方は、U,H,F,Gの4パターン共通に重要な考え方である。それぞれのエネルギー量が「どんなタイプのエネルギーの出入りの履歴をカウントするのか?」を理解することが本質的である。


さてここで、

「独立変数と従属変数が別のものだったら、一定とする物理量を体積V以外にとれるから、別のタイプの変化もうまく説明できるのではないか?」

という考えにいたるのは自然である。それで、U以外の残り3つのH,F,Gが考え出されたわけである。

エンタルピー

エンタルピーHに関する全微分形式での(ベクトル)方程式は

dH = T * dS + V * dp

というものになる。右辺の第1項目(T * dS)は内部エネルギーと全く一緒で、内部エネルギーとの違いは2項目のpとVの役割が入れ替わっているだけである。

エンタルピーは圧力が一定すなわちdp=0のときに

dH = T * dS = d'Q

となる。

本来、物質が熱をもらうと、体積が変化することによる外部への仕事(p * dV)と、それ自体の圧力の高まり (V * dp)という変化の、2つのことに熱エネルギーが配分される。

内部エネルギーは、もらった熱から外部への仕事(p * dV)の分をマイナスして、残りのエネルギーを履歴としてカウントするエネルギーであった。仮に熱の出入りがなくても自身の体積が膨張して温度が冷めることによって外部に仕事をするような場合、外部への仕事によるマイナスだけがカウントされる。圧力の高まりの分は(温度変化の副作用ともみなせるし)カウントしない。

 

エンタルピーは圧力が一定ならば、外部への仕事を割り引いたりせずにもらった熱をそのままカウントする。さらに圧力一定でもない場合、本来は温度変化による副作用であるはずの圧力の高まりによる(見かけ上の)エネルギー変化 V * dpをも(ある意味ダブルカウントにはなるが)カウントする。


外部への仕事を割り引かず、温度変化の副作用であるはずの圧力変化をもダブルカウントしてしまうような謎のエネルギー量であるエンタルピーは、一体何の役の立つのだろうか?

例えば「風船を温めたらどれだけ温度が上がるか?」みたいなケースで便利なのである。風船を温めると膨らむ。実際は膨らむとゴムの張力によって圧力も変わってしまうのだが、仮に圧力が一定で体積が変わるだけ、すなわち膨らむだけだとしよう。

それで「与えた熱のうちどれくらいが外部の仕事に使われて、その残りのエネルギーで温度上昇がどのくらいになるか」を計算したいのだが、それには外部にする仕事も含めてカウントするようなエネルギーの計算式を使う必要がある。それがエンタルピーというわけだ。

この問題は抽象化して考えれば「圧力が一定な(膨らむかもしれない)物質の比熱を求める問題」と考えることができる。

つまり「定圧比熱」を計算するときエンタルピーは必要なのである。(なお同様に「定積比熱」は内部エネルギーを使って計算できる。)


さて、エンタルピーHであるが、全微分形式ではなく元のUとHの関係式を明示的に

H = U + p * V

と書くことができる。これに「積の全微分の法則」というのを使うと、

d(p * V) = dp * V + p * dV

となるので、

dH = dU + p * dV + V * dp

であり、

dU = T * dS - p * dV

を代入すると

dH = T * dS - p * dV + p * dV + V * dp
= T * dS + V * dp

となって本節冒頭のdHの方程式が導かれる。

では、

H = U + p * V

の解釈について説明しよう。

これは物質が持っている(体積や圧力や温度や化学結合等に起因する諸々の)内部エネルギーに、圧力と体積という物質の「空間的な占有に起因するエネルギーの部分」を明示的にダブルカウントした、いわば人工的なエネルギー概念という解釈ができる。

定圧比熱を計算するのに便利である以外でのエンタルピーのユースケースとしては、「化学反応前後のエネルギー差」が挙げられる。化学反応によって生まれるエネルギーは、熱と仕事と物質の圧力変化に配分されるため、それらの合計を計算する必要がある。したがって、エネルギーの出入りの履歴のカウント方法としてエンタルピーがもっとも適したタイプのエネルギーということになる。


自由エネルギー F, G

dF = -p * dV - S * dT (ヘルムホルツの自由エネルギー)
dG = V * dp - S * dT (ギブスの自由エネルギー)

自由エネルギーというのは、物質が持っているエネルギーのうち物質が温度的に持っている部分を引いたエネルギーである。温度は自発的に下げることはできないので自由エネルギーとは物質から仕事として取り出すことの出来る上限だともいえる。

自由エネルギーがあるなら、ほっといてもそのエネルギーは何かに消費される。つまり「自由に使えるおこづかい」みたいな意味で「自由エネルギー」と呼んでいるのだ。

温度的なエネルギーは温度を維持するのに必要であって自由に取り出すことができない、いわば「維持費」とか「光熱費」みたいなものだ。

 

ヘルムホルツの自由エネルギーFは、意味としては「温度が一定の物質から仕事として取り出すことのできるエネルギーの上限」である。

例えば風船に針を刺したらとパン!と割れる。周りと比べて高い圧力をもった気体はそのままでいることはなく、勝手に体積を膨らませて外部へ仕事をすることによって自身のヘルムホルツ自由エネルギーを消費するのである。最大でどのくらい消費するかというと、物体の内部エネルギーから温度的なエネルギーつまり「光熱費」を除いた残りであり、

F = U - T * S

と表される。これが「ヘルムホルツの自由エネルギー」である。冒頭の数式は、この式を全微分形式で書いただけである。全微分で書くことで、p,V,S,Tの4つとの関係をより詳しく表されるので、ここでもやはり全微分形式の方程式がメインの法則になるのだ。

 

もう一つのギブスの自由エネルギーはエンタルピーを使って

G = H - T * S

と表される。冒頭のdGの式は同じくこれを全微分形式で表したものである。

エンタルピーの変化は化学反応によって生じるエネルギーを表すのに使われるのだった。よって、ギブスの自由エネルギーはエンタルピーから温度による「維持費」を引いた残り、すなわち化学エネルギーとして自由に取り出すことのできるエネルギー、と解釈することができる。

冒頭のdGの全微分方程式をみると、温度と圧力が一定のときにdG=0であり変化しないエネルギーであり温度と圧力が一定ならば物理的学には体積も一定であるので、そのことからも物体が化学物質としてもつ化学エネルギーあるいは水蒸気と水と氷といった「物質の相」が持つエネルギーといった解釈ができる。


例えば-5度に過冷却した水は放っておいても勝手に凍る。なぜなら、マイナス5℃で1気圧の水は液体でいるよりも氷でいるほうがギブスの自由エネルギーが小さいからである。
ふつう水が氷るときには凝固熱を発生するのでエンタルピーHは増えるのだが、同時に温度Tが上がる分によってそれが相殺され、もし温度上昇の影響がエンタルピー増による影響を上回れば、全体としてギブス自由エネルギーは下がる。

そうして水の一部が氷に変化して全体としてマイナス4.9℃になったする。それでもやっぱり氷のほうが自由エネルギーが低いのでということで、引き続き凝固熱によって温度が上がりつつ凍る、というのが温度が0℃以下である間続く。


なお、過冷却した水はちょっとした振動とかきっかけがない限りは氷にならなかったりとか、燃料には火をつけない限り燃えなかったりとか、自由エネルギーを持っていても自発的には変化が始まらない状況というのもよくある。これはいわゆる「非平衡状態」を経由する変化なので、熱力学の理論適用対象外、すなわち自由エネルギーだけでは本来は説明することができない。

熱力学関数どうしの関係

ここまで説明してきたように、4つの熱力学の間には

H = U + p * V
F = U - T * S
G = H - T * S

という関係があるので、4つのうちいずれか一つが分かれば残り3つは上の3つの方程式を使って求めることができる。したがって、導出しやすいものを一つ導出して、残りは上の式で計算すれば、4パターンすべて使うことができる。こういう理由で4パターンも存在しているのだ。

特にヘルムホルツの自由エネルギーは束縛変数がVとTであることが計算上都合がよいという理由で、統計力学のカノニカル集団という分子のあつまりを温度でグループ分けして計算するときに第一に計算する熱力学関数としてよく使われる。


また4つの全微分方程式を色々と数式変形していくことで、様々な条件における関係式(物理量Xが一定の時のYをZで偏微分した値とか)を計算することができる。

本記事の最初のほうで述べたように、熱力学は「根元的な4つの方程式から数式変形によって派生法則を導ける理論」をこのように実現しているのである。
数式変形によって得られる公式として特に重要なものとして、マクスウェルの関係式というのがある。これは数学的には4つの熱力学関数の「全微分可能条件」に相当する。

それらの各種の数式変形は「微分形式」を使うと非常に素早く行うことができる。マクスウェルの関係式などは数ステップで求めることが出来たりして非常に便利である。

というわけで

熱力学入門でした。

次回は続編として統計力学入門を書くかも(?)しれません。

「形の美しいチョコレートはおいしいチョコレートである」ことの科学的な説明

はじめに

最近はろくに仕事もせず、毎日朝から晩まで数学の勉強をしています。今が人生で一番幸せなときかもしれない。

それはさておき、バレンタインデーです(でした)ね。

YouTubeを見ていたら、手作りチョコを調理映像とともに披露している女性YouTuberを幾人か見ました。

そこで本記事は私なりに考えた結果である

「形の美しいチョコレートはおいしいチョコレートである」

ということを科学的に説明しようと思います。簡単なので読んでみてください。

チョコレートはどんな物質か?

まず、チョコレートはどんな物質かというと、添加物が混じった油脂の結晶個体です。油脂の溶けやすさは、含まれている脂肪物質の種類や結晶構造によって変わります。

チョコレートを製造する食品メーカーは、それらの成分や結晶構造をうまく調整して、体内(口腔内)と体外の温度のちょうど中間あたりの温度でとけるよう工夫しています。

市販のチョコレートを自分で溶かしてオリジナルな成型をすると、成分は(揮発などにより多少は変わるとはいえ)基本的には変わらず、主に結晶構造の違いが生じることによっておいしさが変わります。

オリジナルチョコを作る際、材料(成分)を独自に添加することなしに融解・再成型しただけの場合、しばしばもとのチョコよりまずかったり、というかめったに元のチョコよりおいしくならないのは、メーカーによる結晶構造調整力の高さとその再現性の難しさに起因しているわけです。


口どけの滑らかさとは?

そうした融解温度が、氷(0℃で解けますよね)のように一定の温度に集中している場合、チョコを口に放り込んだ時にじわっと滑らかに溶けていくのではなく、表面でしか溶けていかない「固い」舌触りのチョコとなってしまいます。

逆にその融解温度が、体外の温度と口腔内の温度の間の温度帯に広がりを持っている場合、口の中で温まるにつれて滑らかに溶けていく、いわゆる「口どけの滑らかなチョコ」となります。

 

成型のしやすさとは?

完全に固形状態のチョコは、ナイフで外周を切り落としたり型抜きでかたどったりをする際、壊れやすいという経験法則は多くの人に同意されることでしょう。

チョコレートは油脂の結晶という観点で見ると「不純物」をたくさん含む個体であるため、脆性(ぜいせい、すなわち、もろさ)が氷などと比べて高いです。毎年北海道の雪まつりで展示披露されるような見事な氷の彫刻のような造形は、氷の単一結晶としての均一性の高さに起因しているわけです。(厳密にはチョコは固体コロイドなので氷との直接比較は理論的にはまずいのでしょうが…カジュアルなブログ記事ですし…)

つまり個体のチョコレートは原理的に脆く、成型が難しいのです。

よって、市販のおしゃれな形をした贈答用チョコレートがおいしさと形の美しさを両立できている理由は、チョコレートの製造プロセスの中に成型工程が組み込まれているからであり、個体のチョコレートを成型する技術が高いとかそういう理由ではないはずです。

したがって個人のオリジナルチョコのレベルでそれ上手に模倣しようとするなら、再成型時の温度帯を融解温度付近まで上げていかざるを得ないでしょう。

その際、もし「融解温度帯の広がりが狭い」場合、温めるとすぐ液状化してしまうし冷ますとすぐ固まってしまうしと、成型に適した柔らかさ(脆性の低さ)をなかなか維持しにくくなります。

逆に広い融解温度帯をもっている場合、多少の温度の変動があっても成型しやすい柔らかさをキープできるわけです。

つまり、

「成型のしやすいチョコは、口どけの滑らかなチョコである」

ことが結論づけられるわけです。


もう一つの理由付け

先ほど、オリジナルな再成型における成分の揮発は多くないといったことを書きましたが、とはいえあまり温めすぎると香りその他の成分の一部の揮発も増えそうです。しかも温めるにつれてメーカーが調整した結晶構造が壊れる割合とも対応するので、温めすぎによる品質劣化はその両面で効いてくるわけです。つまり

「成型のしやすいチョコは、成分の揮発が低く抑えられている」

ということも言えるかもしれません。

 

というわけで

というわけで、おいしいチョコと成型の見事さの間には実は正の相関関係があった!という話でした。

これで、

オリジナルチョコを見ただけでおいしいかまずいか大体想像がつくということにも科学的な根拠づけができたといえるかもしれません。

ところで、では「どうしたら融解温度帯の広い結晶構造分布を再現できるのか?」については「なるべく温めすぎないように注意する」以外のことは私はわかりません。もっといろいろノウハウがきっとあるのではないかと思います。


それについては個々の愛のパワーにお任せしようと思います。


おわり。

 

(追記)

と、ここまで書いて自分で気づいたのですが、再成型時に思いっきり高温で融解して完全に液体の状態で型に流し込めば自由な造形ができ、それは形はきれいだけど美味しくないチョコになってしまうことに気づき、本記事はやっぱりボツかなと思ってしまったのですが、せっかく書いたので残しておきます。

米大統領選を見て思ったこと

もりあがってますね

今週のメディア報道は稀にみる混戦模様となっている米大統領選関連でもちきりだった。11/5現在はバイデン氏がかなり優勢とのことで、個人的にはそのまま大統領交代になるんじゃないかと思う。

 

そもそもトランプ氏が4年前に大統領になった背景には、もともと白人のフロンティア集団が作ったアメリカという国において、その基本政治経済基盤である自由資本主義経済のシステムが極度に強まった結果、国内外のグローバル化・多民族化が猛スピードで進行し、白人同士の競争社会として十分成長余地のあった時代が終わり、一部の(といっても少なくない)没落する白人たちの経済を支え切れなくなった反動というパワーが主要因としてある、というのがいくつかの解説記事を読んだ限りの自分の理解だ。(人種のるつぼといわれるアメリカだけど、依然として白人が70%超を占めている。)

 

資本主義と自由競争という経済システムは、生産性の拡大余地が十分にあるうちは大多数の労働者を十分に養いながら社会全体の生産性をも高めるようその機能をうまく発揮するが、その競争が及ぶ範囲(地域とか人種とか色々)において十分に生産性の最適化が進行すると、こんどはその競争の範囲自体を広げてまで最適化を進めるよう機能してしまう。

 

 その元来の矛盾を、アメリカは民主主義という政治システムにリベラリズムという経済システム的な「色」を加えた思想=「自由民主主義」を基盤に据えることでこれまでうまくやってきた。すさまじい最適化パワーをもつ自由資本主義という「経済」システムを第一に採用し、そこで生まれる諸問題を民主主義に基づく「政治」システムが「補助」していくというやり方だ。

アメリカが直面する「ズレ」

その方法は、政治システムがその権力を及ぼしうる範囲と、経済システムが巻き込む競争・最適化の範囲がある程度一致している間は当然ながら単純にうまくいく。そりゃあダメなところを補助する仕組みがちゃんと機能するなら、うまくいかない理由がない。

 

しかし、その範囲のズレが大きくなりすぎたらどうなるのか?それが今のアメリカという国が直面している事態だ。すなわち、自由民主主義は完全な賞味期限切れにはなっていないものの、もう過ぐ期限切れになりそうなシステムであり、それを基盤とするのが今のアメリカという国だ。

 

トランプ氏そして共和党はその範囲のズレに直面する(かつてのこの国を切り開いた人々である)白人たちを救おうとする象徴であり、バイデン氏はこの国の成立と成長を支えた自由民主主義というシステムを純粋に維持発展させていこうとする象徴である。

 

ちなみに、トランプ氏の支持者に白人以外の人もたくさんいるのは、氏のそのズレへの対処の仕方が大衆に迎合する分かりやすい方法(そういうのをポピュリズムというらしい)が多いからだそうな。それから、バイデン氏は長い間上院議員や副大統領を務めてきた人で、ホワイトハウスの政治に精通したいわば生粋のアメリ自由民主主義の担い手みたいな政治家だ。

 

しかし、ここまで本記事を読んでくださったあなたはこう感じるかもしれない。


「ぶっちゃけ、どっちの候補者も時代に対応できなそうじゃね?」


少なくとも、私はそう思っていた。根本的な問題は上述した「範囲のズレ」であって、今回は「人種のるつぼ」たるアメリカが、没落する一部の白人たちの声を抑えて自由民主主義を貫こうとする形でバイデン氏を選ぶのだろうが(といっても相当の接戦らしいので選挙後もねじれまくりそうではあるが)、そのズレは拡大する一方なので自由民主主義は迫りくる賞味期限への対応を迫られ続ける。 

選挙の後の状況を考えよう

要するに、バイデン氏、というか「アメリ自由民主主義」というやり方が、超スピードで進行するグローバル自由資本主義経済システムにどう対処していくのか?が、今後いちばんに注目していくべきところであって、それに比べたら「どちらが勝つか?」は実はそれほど重要ではない。

 

ただ、仮にトランプ氏が再選されれば、その対処の仕方がより保守的になり「アメリ自由民主主義」という色あいがはっきり見えづらくなるので、バイデン氏が当選したほうがその政治をとおして状況が見えやすくなるということはあるかもしれない。


現代の経済システムが持つパワーとそれが及ぼす範囲は、アメリカや中国といった大国の動向にすら左右されないだろう。経済の仕組みといえば昔だったら戦争でリセットされたりした時代もあったのだろうが、いまや経済はグローバル化してしまっているので、人類が滅んでしまうレベルの戦争じゃないとリセットできないだろう。なので、グローバル資本主義を前提として、政治システムのほうをチマチマ調整して対応していくことになるんだろう。

 

こういう場合、いちばん対照的な部分に目を向けると境界がみえやすいんじゃないか?ということで、「バイデン氏が関税の強化や対中国への姿勢についてどう考えているか?」を見てみよう。つまり、アメリ自由民主主義がグローバル自由資本主義がもたらしたズレへの対処としてどのくらい保守的な「賞味期限伸ばし」に「泣きつくつもり」なのか?を見てみよう、というわけだ。 

バイデン氏の基調=「同盟」及び「国際協調」

いくつかのメディア報道を見るに、トランプ氏ほどではないが、バイデン氏も対中国への姿勢は穏やかではない。端的にいえば、中国の強大化への対処として国際協調をかじ取りする立場を強めることによって(おそらく)相対的に中国の力を弱めようとするような路線なのだろう。

 

そもそものバイデン氏は、地球温暖化やサイバーセキュリティといった、国やイデオロギーを超えた問題に対しての関心がトランプ氏よりも強い(という姿勢である)。
こうした問題への対処は、そのグローバルさゆえにグローバル資本主義経済システムへの対処と親和性が高い。例えば、地球温暖化対策のために誰(どの国)がどのくらいカネを出すのか?あるいはどのくらい公害を減らす(=経済的に不利なルールを受け入れる)のか?といった問題でアメリカがうまくイニシアチブをとれたとする。そうしたら、その仕組みはグローバル自由資本主義経済システムにおける(アメリカにとって不利な)問題に対処する際にも同様に適用できそうである。

 

グローバル国際政治においてイニシアチブをとることで、グローバル自由資本主義経済の範囲と、自国の政治力が及ぼす範囲のズレをなくすというのがその根本的な対処法というわけである。

 

では、関税についてはどうか?バイデン氏は「自滅的な関税には反対」とのことだ。どちらかというとバイデン氏はお金の流れそのものよりも、それに影響を与える間接的要因にたいして積極的に働きかけていくような政治を志向しているように思われる。つまり、どうやらバイデン氏は、ポピュリズム的な「賞味期限伸ばし」に泣きつくつもりはほとんどないものの、その政治の方法論としては自由民主主義がこれまで(国内で)適用し続けてきたやり方を国際政治のレベルで応用しようとするものである、というわけだ。

 

バイデン氏の所属する民主党自由民主主義の上に福祉国家の色(=政治の力で社会に公平化の仕組みをたくさん作ろうとする傾向)を強めた「社会民主主義」を理念として掲げており、それが氏の政治方針における国際的な介入度の傾向と呼応しているのかもしれない。

 

ここまで見た個人的な寸評としては、バイデン氏、自由民主主義の長年の担い手たる政治家だけあって、その賞味期限を可能な限りは伸ばしてゆけそうである。報道記事を読んで僕でも理解できるような根本的対処に対して全方面カバーしようとしているように見受けられる。(自分が没落しつつある白人アメリカ人だったとしてもバイデン氏に投票したかもしれない。)

 

範囲のズレに対処する「まっとうな」(=関税とか鎖国とかじゃない)方法をバイデン氏は採用しようとしているが、中国も同じような「まっとうな」やり方でズレに対処しながら世界的な大国を維持しようとしている。なので中国とアメリカは根本的にそこに対立理由がある。バイデン氏といえども中国に対して全面的に温和な姿勢でいることはできない。

 

トランプ氏はわかりやすい直接的(ポピュリズム的)なやり方で中国に対抗してきているが、バイデン氏が当選したらより間接的なやり方で中国を国際的に包囲していくのだろう。

 

というわけで、本記事をまとめると、バイデン氏が当選すると現在や今後のアメリカの状況がより見えやすくなって良いですね、ということくらいかもしれない。1のことを語るのに10しゃべった感がハンパない。すみません。

おわり

実際には他にも特に軍事問題や自治問題などの国際問題についてバイデン氏の政策路線は興味深い特徴があるようですが、勉強中なので割愛。

 

また何か思ったら記事書きます(中国の動向や国際的なサイバーセキュリティの動向などに興味があります)。

 

では。

aとtheの違い ~参照するコンテキストの射程距離の差~

英語を学んでいて最も戸惑うことの一つは、(日本語ではあまり意識することのない)aとtheの区別だろう。

 

様々な英語教材・教育現場において、その区別が「どんなものであるか?」が教えられるが、「なぜその区別が存在しているのか?」についてはあまりよく教えられていないように思う。

 

少しテーマからそれるが、私たちが歴史を学ぶとき、それをas-is、すなわち特段の理由なしに「あるがまま」を受け入れて覚えることは不可能なことではないものの、それがそうなった経緯・理由が分かると格段に覚えやすさが高まる。それは人の記憶機能がエピソードや理由が伴ったときによく発揮されるようにできているからだろう。

 

多くの国で、幼少期・少年期に義務教育が課されている一番の理由は、人は幼少から年少の成長段階においては、経験を踏まえたり理由を添えたりすることなく「あるがまま」をそのまま受け入れることが容易だからだろう。人は大人になるにつれて、前経験への参照を必要とする度合いが高まっていく。

 

それはそうにしても、私は中学生という比較的年少の時分においてさえ、aとtheの違いをas-isで受け入れることは難しかった。おそらくそれは、幼少から年少の早期において既に社会的な経験によって包摂された何かによって理解が阻害されうるものの一つなのではないかと感じた。

 

最近、私がハマっているとあるオンラインゲームには公式のオンラインコミュニティフォーラムがあり、そこで様々な意見を交わすことができ、ゲームにハマるとともに私は頻繁にそこでの議論に参加しているのだが、その経験で得たのは、英語を使う人たちはそれほどaとtheの違いに敏感ではないという感触だ。そしてまた、英語と日本語の大きな違いとしての、単数形と複数形の違いや、1・2人称と3人称(における動詞活用形)の区別なども、あまり意識されないように思う。ネイティブな読み手にとって、もちろん違和感は感じているはずだが、議論の致命的なところでそれが誤解を招く要因となることはほとんどなさそうであった。

 

しかし面白いことに、英語を頻繁に数か月使っていると「aとtheの違い」や「3人称における動詞の活用形の区別」や「単数と複数の区別」を違えることについて自分自身が違和感を感じるようになっていった。

 

例を示そう。

 

日本語)

J1) 公式発表、遅れてるね。何考えてるんだろう?

J2) 公式発表、遅れてるね。どう思う?

J3) 公式発表があるらしいよ。どうなるかな?

 

英語)

E1) The official announcement is delayed. What do they think of?

E2) The official announcement is delayed. What do you think of?

E3) I heard an official announcement is to be present. I wonder how does it go.

 

共通して、日本語では主語が省略されている。また、E1とE3の間には「aとtheの違い」があるが、J1とJ3の間でそれは明示的には表現されていない。さらに、J1~3では3人称単数における表現上の区別が無い。

 

では、これをわざと表現を逆転させてみよう。

 

日本語)

J1') 例の公式発表、遅れてるね。彼らは何考えてるんだろう?

J2') 例の公式発表、遅れてるね。君はどう思う?

J3') 何か一つ公式発表があるらしいよ。それってどうなるのかな?

 

英語)

E1') Official announcement(s) (is/are) delayed. What (does/do) ??? think of?

E2') Official announcement(s) (is/are) delayed. What (does/do) ??? think of?

E3') ??? heard official announcement(s) (is/are) to be present. ??? wonder how (does/do) ??? go.

 

 日本語のほうは、文法的な間違いというほどでもないがなんだか「クドい」。英語のほうは、そもそも文法的に成立させにくい。日本語のほうに感じる「『いわずもがな』なことをあえて言ってる感」はどこからきているのだろう?

 

おそらく日本語の会話においては、その公式発表が「例の」ものであろうが、何か新しいものであろうが、それが一つであろうが複数であろうが(?)、それは「どうでもよい」ことである。何かを指し示すとき、それが過去の文脈上に存在しようがしまいが、ぶっちゃけどうでもよい。

 

「われらコミュニティのだれかのコンテキスト」にそれが存在しさえすればよい。という感覚が日本語特有のものではないかと思う。そしてもっというと、それらの存在するコンテキストのいずれもが基本「同調している」あるいは「いつか同期する」ことを期待する。

 

対して、英語においては「わたし」と「あなた」と「ここ」こそが、目下いちばん先に参照すべきコンテキストであり、そのコンテキストに入っているか否かは言葉のセマンティクスを左右する事項だ。そしてその他のコンテキストについては、それらが基本「相異なっている」ことを前提とする。

 

その前提に立ち、異なるコンテキストにおいて「少ない表現コスト」で「見分けやすさを高めやすい」ものはなんだろう?思うに、それこそが「三人称単数の強調」、「単数・複数の差」、「aとtheの差」なのである。

 

まず、複数人称を区別することは表現コストが比較的重い。複数の個体を束ねたコンテキストはもともと「個体差が薄れた何か」になりやすい。そのため、もともと差が生まれにくいものを区別するのに何らかの表現を持ち込むのはあまりコスパがよくない。

 

対して、単数の人称はそれが個人のコンテキストを参照するマーカーとなるため、小さな表現コストで相異なる可能性の高い参照先のコンテキストを区別しやすくなる。

 

「単数・複数の差」や「aとtheの差」も、参照先のコンテキストが「誰のもの」か「誰と誰のいつのどの会話のもの」かをコスパ良く指し示すための表現手段に他ならないのだ。

 

まとめると、日本語では「同調を期待できるコンテキストがあまたに存在する社会においてコミュニケーションをとる」ために、コンテキストの区別よりも「われわれ(と同期しうるいずれかのコンテキスト)」がどうであるか・なんであるか・どうするのかを問うのに対し、英語では、「相違を前提とするコンテキストの間で、コミュニケーションをとる」ための効率よい表現手段として、「aとtheの区別」「3人称単数の強調」「単数と複数の明示的な区別」が導入されているのだ。

 

これがいまのところの私の理解なのであるが、どうだろうか?