昆虫の偏光視覚
光(電磁波)には偏光という性質がある。人間の視覚はそれを認識できない。人間の目はハードウェアとして偏光センサを備えていないからだ。昆虫の目、とくに複眼には、偏光を認識できるものが多くある。
人間は、波長を「色」という感覚で知覚できる。光の強さ(振幅の大きさ)も、「明るい、暗い、まぶしい」といった感覚で知覚できる。
昆虫は、偏光の感覚を、どのように感じているのだろうか?
人間にとっても、色と明るさは、まったく別の種類の感覚だ。明るいことと青いことは、まったく別の概念(形容詞)だ。では偏光はどのような形容詞で表現されるのだろう?
偏光サングラス
釣りをする人が、水面のまぶしい反射光を低減して周囲を見るために偏光サングラスを着けることがある。本来、偏光には「偏光角度」があるが、偏光サングラスは望ましい偏光角度以外をカットするサングラスだ。通常、両眼ともフィルタする偏光角度は同じである。
昆虫の複眼は、さまざまな偏光角度のフィルターを寄せ集めたような「多数の偏光サングラス」のような構造をしている。そこでセンシングした光を、同時刻に知覚するのである。まず目が3個以上ある身体という感覚が、人間にとって異次元である上に、偏光感覚まで存在するのだ。
では、人間も両眼で異なる偏光角度を持つサングラスを四六時中着けて生活をすることで昆虫の感覚に少しでも近づくことは出来るのだろうか?
そこまでしなくても、偏光サングラスを使うことで、いままでにない独自の感覚を覚えることは可能なのだろうか?認知科学的な研究についてグーグルでざっくり検索してみたが、そのような研究を見つけることができなかった。
ソシュールの言語学
ここで話が飛ぶが、言語学者ソシュールは「言葉と意味の結びつきは恣意的である」という仮説を立てることで、いろいろな言葉の機能や現象を解明する方法を提案した。
「色」と「味」が異なる感覚であることは主観的には当たり前のことだが、それが「客観的にも異なる」ことは本当は当たり前のことではない。
色と味の区別ができない人の存在は、想像するのが難しいけど、「そういう人がいたらいたでしょうがない」気もする。
でも言葉と意味の結びつきが恣意的なのにもかかわらず、多くの国の言語で色と味を「言葉として区別」しているのだから、「色と味の違い」は人類に共通のいわば物理学とかに匹敵するレベルの「客観的な事実」だと認めてよいだろう、ということになる。
そんな感じで、ソシュールの理屈を使うと、「主体的な経験」と「客観的な事実」を結び付けることができる。
しかし昆虫は言葉がしゃべれないので、言葉の違いから感覚の違いを観察するという方法が使えない。それでも偏光という感覚は存在しうるのだろうか?
クオリア
「色」や「まぶしさ」や「味」といった感覚を指すのにクオリアという用語がある。
「使う言葉(形容詞)の違い」とか、「刺激に対する反応の違い」とか、客観的に得られる事実(実験事実)から、内的な経験(知覚や認識)の存在を分析する、認知科学という分野がある。
哲学の認識論では、実験に基づく方法だけでなくより様々な考察の仕方で知覚や感覚にせまるが、認知科学はその科学バージョンである。
クオリアという用語は、そのような科学的な方法では客観的な存在を証明できないような感覚も含めて考察したいときに使われる。こういう用語を使うと、昆虫の偏光感覚の存在についてとりあえず「語る」ことができる。つまり誤解を恐れずに言えば、「霊」とかと同じような使われ方をする用語である。
どうしてそういう非科学的な用語を科学の文脈で持ち出すのかというと、どこまでが今のところ科学的に説明できていて、どこからが出来ないかという境界線について語るときに便利だからである。
哲学は、科学的な方法でない考察も許容するが、科学的な根拠がないのにもかかわらず「普遍の真理」について考察する「形而上学」という「哲学のタイプ」がある。霊とかクオリアは、形而上学的な用語である。
偏光感覚の存在証明
そういう感じで、昆虫が独自の偏光感覚を持っているかどうか、それが種を超えたクオリアなのか、さらにそれが認知科学的に存在を証明されうるのか、まだまだ分からなそうである。
分からないなりに用語や概念を使って「わからなさ」について本記事のように「語る」ことが出来たりするところが、この手の話のちょっとした面白さかもしれない。