分断の時代における行動指針について

現在~近未来は「分断」の時代だと言われます。

 分断は悪いものでしょうか? 良いものでしょうか?

私なりに考えてみたことを書いてみます。

 

 自由と合理的行動

社会の様々なところで分断が浮き彫りになる前の時代は、「グローバル化」がポジティブな意味を持つ言葉でした。
グローバル化によって、さまざまな価値観が「流通」し、その交差点にグローバルな創造が立ちあらわるというユートピア的な幻想を多くの人が抱きました。

 

そのモメンタムは非常に強く、「グローバル化」はいまでも基本的にはポジティブな意味合いを帯びています。それは結構長い間(ここ30~40年くらい)「良いもの」だったわけです。そのせいで、「良いものだから、やらなければならない」という「暗黙の前提」が生まれました。

 

これは強制力です。

 

強制というと何か自由を束縛されるようなイメージを抱くかもしれませんが、これは自由行動を前提としても逃れられない力です。例えば、Googleを使わずにインターネットを使うことは極めて非効率的なことです。合理的な行動をしようとするかぎり、グローバル化の強制力が働くわけです。

 

つまりグローバル化は「自由」と「合理的な行動」というこれまで両立するのが当たり前だった2つのどちらか一方を犠牲にしなければならなくなったことを意味します。

では、「自由」と「合理的な行動」はどちらが大事でしょうか? 相対的にあきらめても良いのはどちらでしょうか?

 

それぞれについて、一方をあきらめたらどうなるか、考えてみましょう。


自由をあきらめた場合

この場合、引き続きグローバル化に積極的に乗っかり、合理的な行動をこれまで通り積み上げていきます。言葉や文化の壁を越えてインターネット上であらゆる人々が多様な価値観を認め合い、そのなかでコラボレーションによりグローバルな価値創造が無限に広がる世界。

グローバル化という津波の上でサーフィンをする人たち。津波の上でサーフィンをするには、常に津波に合わせてしっかりと自分の行動を合理的にコントロールしなければなりません。非合理的な行動をすることは津波から落ちて波に乗り遅れることを意味します。

 

世界は多様な価値観の交差点であり、そしていずれの価値観にもグローバルNo.1の覇者が存在し、世界はその覇者を中心に回ります。

 

独自の価値観を意味のあるものにするためには、No.1にならなければなりません。その視点にたつと、コラボレーションという行動は、価値観の融合によってNo.1になる確率を上げる行動である、とみなすことも出来るでしょう。

 

グローバルな世界では文化とはマッシュアップの素材に過ぎず、プロダクトやサービスの最終価値こそがすべてであるという考え方を徹底することで、多様な文化から多様な価値が無限に生成されてゆきます。


合理的な行動をあきらめた場合

こちらの人々は、インターネットで検索しても出てこないようなマイナーな店を見つけることに「良さ」を感じます。

 

相撲、能や歌舞伎、落語、日舞といった伝統文化に誇りを感じ、美しい田舎の風景やお辞儀や敬語といった日本人の美意識は外国の美意識がどう変化しようとも独立に存続しうるものだと信じます。

 

海外で英語のコメディアンが落語的なストーリーを英語文化にアレンジして語ってYouTubeで人気者になったとき、彼が日本の落語を単なるアイディアのマッシュアップ素材とみなしていることに強い嫌悪感を抱きます。

 

日本人の料理研究家が日本人の味覚に合う新しい料理のレシピを考えて、それが偶然海外でヘルシーフードとして大ブームとなったとき、その料理研究家が海外に移住せず、メディアのインタビューで「引き続き新しい日本食のレシピを日本人のために考え続ける」と語ったことが大絶賛されます。

 

新しいテクノロジーは自分たちの価値観に合うものは積極的に取り入れ、価値観に合わないものはしばらく保留します。江戸時代に生きた人々は今のようなテクノロジーをもっていなかったけど、決して今の人々よりも不幸ではなかったと考えます。

 

グローバルな世界がどのように進歩しようとも、人間の生存を維持するレベルのテクノロジーは十分にあり、貧しくても死ぬようなことは無いのだから、世界の発展よりも自分たちが生まれたこの地の文化と伝統を維持発展させていくことに注力します。

テクノロジーの恩恵を真っ先に受けることは無いにしても、それがコモディティ化して安価になった時点で自分たちの価値観や文化に合わせてアレンジして取り込めば、競争に巻き込まれずにいながらそれなりの豊かさを享受し続けられると考えます。

 


合理性を一部捨てることの意義

さて、2つの場合について考えてみて思うことは、合理的行動を100%完全に遂行しなくてもそれなりに豊かさを維持できそうだ、ということです。

むしろ合理性を1部捨てて、グローバル化と適度な距離を保つバランス感覚を洗練させていくことに、かなりのリアリティを感じます。

合理的でない行動に基づいた価値創造にもっと目を向けるべきではないかと個人的に思います。

 

では具体的な行動指針をいくつか考えてみましょう。

 

具体例1:積極的に外出する、人に会う

コロナ禍で外出は控えるよう言われていますが、マスクを着けるという合理的な行動だけを採用し、「なるべく外出しない」という画一的な合理判断を捨てます。

 

外出が悪いのではなく、人に接触するリスクを増やすことが悪いのですから、それさえ気を付ければよいと考えます。このように自己責任で主体的に行動することで、自由を再び手に入れることが出来ます。

 

古来から、多くの哲学者や思想家が、国の政治と市民の自由な行動との関係について望ましい指針を色々考えてきました。「市民」という概念は、そのような思想の総体と考えることができます。

 

ホームパーティを開催しても良いでしょう。参加者たちには、スマホで記念撮影してもよいけど決してSNSに投稿してはならないと繰り返し注意しつつパーティーを始めます。きっとそのパーティは、子供の頃に感じた「大人の自由」という憧れを取り戻す時間になるでしょう。

 

多くの人が、「人の接触に今よりももっと気を付け」つつ「外出の機会を増やす」ことで生まれる(日本のローカルな)経済価値は大きな規模になるでしょう。接触に気を付けながら積極的に外に出ることで、新しい「安全な接触方法」が文化的・技術的に創造される可能性もあります。リアルで人に会うことの希少性が高まっているがゆえに、実際に会ったときの価値を最大化させることにも工夫の余地をたくさん見つけるかもしれません。

 

自由な自己意思をもった「市民」がもたらす創造力が、画一的な合理判断をいったん脇において「自分で考えて行動」する力によってもたらされます。

 

強制力を持つように見えるグローバルな常識は、統計的な最適解という科学的な結果を語るにすぎません。人間を科学だけで強制することはできません。

 

具体例2: アナログ価値の再確認「LINEでごめんね」

私は趣味で数学や物理学を学ぶのですが、いまはインターネット上にたくさんの資料があり、ダウンロードして読むことが出来ます。

しかしそれらをきちんと理解するには、ノートやレポート用紙を拡げて内容を書き写したり無言で何十分も考えたりすることに意義があると信じています。

 

日本人初のフィールズ賞受賞者の小平先生は、大学の学部レベルの数学を学んだ際、分からないところを何度も紙に分かるまで書き写したりしたそうです。この話を知ったとき、小平先生ほどの天才でもそうなのか、と私はビックリしたのですが、その話には続きがあって、そのとき小平先生は中学生だったということで、あぁやっぱり天才は天才かと腑に落ちたのでした。

 

それと、もう一つの例として、とある作曲家から聞いた話ですが、パソコンの前で作曲ツールを開いて考えてるときでもイメージするのは楽器を演奏しているイメージなのだそうです。その人は作曲を学びたい人は、何か一つ楽器を演奏できるといいと言っていました。その作曲家はコンピュータミュージックを教える学校を経営していて、むしろデジタルな音楽の場をメインの活動場所にしている人なのに、です。

 

この2つの話から得られるのは、「創造力」の源泉はアナログであるという当然の教訓です。インターネットの世界は、キュレーションやマッシュアップが大きな価値を持つ世界ですが、そうした「既存の素材の組み合わせ的な創造」を超えたところにある「素材そのものの創造」は、アナログによってしかなしえないことを、もう一度確認すべきです。

 

日々の生活の中で、無意識にデジタル化してしまっていることは無いでしょうか?

 

例えば、妻に帰宅時間が遅くなることを伝える際にLINEを使わずに電話を使うことにしている方は結構いらっしゃるかと思います。たまに忙しくて連絡をLINEで済ましてしまったときに、「LINEでごめんね」という言葉を添えたりすることもあるかもしれません。

 

私はこの「LINEでごめんね」というキーワードが面白いと思っています。このキーワードは、「アナログ価値の再発見」について考えるときの良い出発点あるいはヒントになるのではないでしょうか?

 

というわけで

何か少し新しい考え方を伝えたいなと思って書いてみました。

 

ではまた!