リゾームにおける切断

短めのブログを頻度高めに書く、っていうの再開したいと思う。

 

最近読んでる本の一つ*1、千葉雅也先生のこの本が凄くおすすめ。

『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

 

新書ってそれなりにライトで読みやすい内容の本が多く、この本もそうなんだけど千葉雅也先生の哲学者としてのある意味半生で得た知見全体を一般向けに書いたという趣(先生自身が本書の中でそう書いている)の本で、「お得感」がある。

 

その中で、ジル・ドゥルーズの「リゾーム」という概念を説明している部分があるのだけど、以前「ちくま新書」でドゥルーズ入門 を読んだときは自分は明確に意識してなかったのだろうリゾームにおける「切断」という考え方にハッとした。

 

ドゥルーズとかのポスト構造主義思想における諸概念に通底することとして、既存の構成的・永続的な意味の体系を流動的で変化に富むものとしてとらえる、という安直な理解を僕はしてきたけど、「どんどん変わっていく」という理解の中に「切断」とかさらにいえば「消える」といったような意味を自分は捉えたことがなかったことに気づいた。

 

ここでいうリゾーム的な切断というのは、通常のある程度確固たる意味体系の上での切断とは異なるという点が重要だ。

 

例えば、Aさんが転職することになった、というケースを考えてみよう。これは、Aさんの人生のキャリア全体からみたら一つの「変化」と捉えることができるが、転職する前の状態に目を向ければそこにおいては「切断」である。これは、転職や勤務先という「意味の定まった言葉」を用いた場合の「切断」である。これは、リゾーム的な切断が特に指し示したい対象ではない

 

それに対して、例えば、「人間の言葉あるいは認識から『死』と『睡眠(あるいは寝るという状態)』を消し去った世界」を考えてみよう。その世界においては、死と睡眠状態は見分けにくい。睡眠中は呼吸をしてるが死んでしまうと呼吸さえないので、ちゃんと観察すれば確かに見分けはつくだろうが、もし仮にその呼吸をしてるかどうかが分からない例えばその人の目のところだけを映した映像がずっと流れるムービーがあったとしたら、その状況をみてその人がどういう状態であるかはどう認識すればよいのだろう?

 

ここで、本記事では死や睡眠という概念を「消し去った」という言い方を僕はしたが、リゾームという言葉が指し示すのは本当は消し去るというよりそもそも概念自体が成立する以前の状況のことである。その「言葉以前の世界」における「切断」を考えたいのである。

 

我々はふだん、ポジティブ・ネガティブという言葉を使ったり、何かがある、ないという言葉をつかったりして、そこに「いい・悪い」という規範的ないし倫理的な「評価」を与えるけど、リゾーム的な世界にはそもそも接合と変化しかないから規範や倫理においては「いいもの」しかないはずなんだけど、その次元において既に「切断」があるのだとしたらその規範や倫理はどう考えたらいいのだろう?

 

リゾームにおける「切断」とは何か?について具体的な例を考え始めても、言葉による出口を見つける限りそれはリゾームにおける生成や変化を指し示してしまうので切断を語れなくなる。つまりリゾームの切断的な側面を考えようとする限り、全く言葉にならないものを考え、そう考えることに時間を使い、その結果何も得られず言葉も残らなかったということにならざるを得ない。

 

そういう概念が存在するのだということが新鮮だったし、そしてリゾームにおける切断のことを「考える」と、その出口がないのにも関わらず、ただ時間を使ったに過ぎないその時間に「確かに考えたはずである」という不思議な認識が残るという生まれて初めての感覚を味わったのだった。

*1:僕は20冊くらいの本を同時並行で読むのが好きなタイプです。

概念化とは何か

突然ですが、本ブログのタイトルは「concepturalization(=概念化)」というものです。

 

パスカルという人が「人間は考える葦である」と語ったことは割と有名な話だと思いますが、「考える」という行為には「言語的な思考」と「非言語的な思考」があります。人間は他の動物と比べて言語が発達した生き物だと思いますが、地球上で言語を我々人間のように自在に操る動物が我々以外に存在しないことからも分かる通り、前者の「言語的思考」は生き物の世界ではマイノリティです。

 

つまり、後者の「非言語的」のほうが圧倒的マジョリティなわけです。そしてその事情は我々人間にも当てはまります。

 

例えば、ある1日の終わりに、その日の出来事や考えたことの「すべて」を日記にしたためることを想像してみましょう。その日の瞬間瞬間を漏らさず日記に書き残すならば、それこそ軽く一冊の文庫本に匹敵するくらいの量の文章を書かなくてはならないかもしれません。それでもなお、言葉にならない部分というのが出てくるはずです。日記ですから、その日の出来事や心の動きなどを「時系列に沿って」書き留めるはずですが、文章にはかなり文と文との間すなわち「文間」がありますから、その文間こそが「非言語的な思考」の領野に属する出来事や心情に相当します。

 

このように、人間は地球上の生き物の中でも圧倒的に言語が発達しているとはいえ、やはり人間の精神における「非言語性」の占める部分は非常に大きいといえるでしょう。

 

だからこそ、非言語的な世界からいかに言語化が可能な領域を見いだして、それを切り取って「カタチ」にするかは、人間を人間たらしめる思考の営みそのものであると言っても過言ではないでしょう。私はその営為を「conceptualization(=概念化)」という言葉を使ってひとくくりに指し示したいと思いました。

 

ただ、言葉や「概念」というものは本来の1次的でインスタント(=即時的)な体験や経験を、時間方向に固定するという強い傾向性をその使用者にもたらすものです。

 

それゆえ「概念化」は、人間を他の動物たちから隔てる人間ならではの精神の賜物である反面、その精神性ゆえに人間の本来の動物性を必要以上に忘却させかねない危険性も孕みます。

 

したがって、概念化を行う際には常にその概念を組み立てるに至った1次的な動物的経験に根差して、いつでも経験的な具体例に立ち返る用意を持つことが不可欠になります。このことは、概念化が「抽象化」とは大きく異なることを意味します。抽象化は、具体例に立ち返ることを必ずしも要請しないからです。

 

常に1次体験への帰還を保証しなければならない思考の営為としてのconceptualizationすなわち概念化は抽象と具体の間のシームレスな行き来を担保して初めて知すなわち蓄積性をもつ精神行為としての資格を得るのです。

真心があれば気の利いた言葉なんて要らないのかも

この週末は、鎌倉に一泊二日旅行に行ってきました。初日の昼は鎌倉の低い山林のよく舗装された道をハイキングし、江ノ電に乗り七里ヶ浜へ足を運んで浜辺を散策しました。

 

夕日を背にむけて帰るのが名残惜しくて、沈む陽をみながらほぼ反対歩きで鎌倉高校前駅までたどり着き、プラットフォーム前に広がる水平線の大パノラマを当たり前のように無視して友達と輪になっておしゃべりする地元の高校生たちに少しだけうらやましさを感じつつ、江ノ電に乗って長谷駅に戻ったあと、宿の最寄りの停留所までバスで向い、ドラッグストアで軽くお酒を買って鎌倉ゲストハウスに到着しました。

 

ここは個室もあるけど僕はいつもドミトリーで、同日に来てるお客さんと囲炉裏端でお酒を飲むのが楽しみな宿です。約1か月ぶりの訪問でしたが、前回顔見知りになったお客さんも幾人かいて、今回もとても楽しい時間を過ごすことができました。

 

そのお客さんの中の一人、もはや常連客中の常連客だそうなJさんという30ちょいの青年が前回顔見知りになって今回もたまたま宿泊日が一緒で、前回同様に彼は日本酒を差し入れがてら買って持ち込んで周りの客にタダでふるまうというサービスをしていて、僕もご相伴にあずかりました。

 

Jさんは少しパーマの掛かったロンゲの一部をレッドに染めていて、シュッとした顔立ちのちょっとしたイケメンで、いかにも美大やクリエイティブ系の職業の人にいそうなタイプのナイスガイです。しゃべり方はあんまりハキハキとした感じはなく、どちらかというとボソボソっとしゃべるタイプで、みんなにお酒をふるまいつつ、同じく常連客である他のお客さんやゲストハウスのおかみさんとのおしゃべりを楽しんでいました。

 

Jさんはニコニコすることもないし怒った表情をすることもなく、いつも平然とした表情で、相手と話をします。でも、彼が相手のことをものすごく思いやるやさしい性格であることはきっとみんなが感じていて、常連客からも宿のスタッフからも、そして僕みたいな一元様に毛が生えた程度のお客からも「Jさん、Jさん」と気軽に話かけられてはボソっと気さくな言葉を返してくるような人です。

 

僕自身もおしゃべりは好きなほうだけど、Jさんとは違ってガンガン自分の思った事や考えたことや相手が言われたら喜びそうな内容の話を早口に「主張」していくタイプなので、そのJさんとは「コミュニケーションのテイスト」がいわば真逆です。

 

Jさんはお酒をふるまうために、なんと専用のグラスセットまで用意してきました。日本酒にも純米酒、や吟醸酒、濁り酒や生酒、スパークリングワイン的に炭酸発酵を強めた日本酒、と種類が色々あります。Jさんはその色んな種類のお酒を1本ずつ買ってきて、それぞれのグラスにマッチするお酒を注いでいました。その多くのグラスは見た目はワイングラスのような形状のものです。

 

一通り味見させてもらった後、グラスを片付けずに宴会は続いていったので、僕はそのグラスでまた別の人が持ち込んだ赤ワインを飲み始めました。他のお客さんとおしゃべりしながらワインをチビチビやってたらJさんが(トイレかな?)僕の前を通りがかったので、

 

「Jさん、これワイン入れちゃった、ごめーん」

 

と半分からかい気味に言葉を投げたら、Jさんは僕の肩をチョンとタッチしながら

 

「ダーメ。ちゃんと使ってよそのグラス。」

 

と、お馴染みのボソっとした口調で言葉を返してきました。それで、知り合ってせいぜい二晩の顔見知りでしかない僕みたいな「他のお客さん」に、そうやって気さくに言葉を返せるJさんって凄いなぁと彼を尊敬する気持ちを抱いたのでした。

 

他人と仲良くなるために「気の利いた言葉」とか「相手を理解しようと努力する」とかはいらなくて、Jさんのように「相手に心を開く」ということが大事なのだなぁと改めて思ったし、そういうことが自然にできるJさんの美点を見て、僕もそういう風になれたらいいなと感じたのでした。

小説の「語り」における人称コントロール、およびモダリティ

僕は文章を書くのが趣味で、こうしてブログを書いたりしてるのだけど、その趣味が高じて小説も書きたくなりチャレンジしてる今日この頃。

 

僕のブログにおける文章はいわゆる「評論文」的なテイストのものが多く、小説を書くことの難しさに直面してるのが現状。そこで本職でもあるプログラマーとして自分がプログラミングをどのように習得していったかを振り返ったときに「サンプルコードを読む」とか「オープンソースのソフトウエアのソースコードを読んで吟味する」とか色々と自分なりに培ったノウハウがあるので、それを「小説の書き方を習得する」という試みに応用できないかと考えた。

 

具体的には、(特に短編くらいの長さの)既存の小説を題材にして、それがあたかもgithubに上がっているソースコードであるかのように見立てて、その小説の文章をじっくりと吟味する、すなわち、その小説の作者になったつもりで、それぞれの文章パートにおいて「どのようなマインドで居れば、この作者のように実際にこの文章を自分でも書くことができるか?」という訓練に、最近は取り組んでいる。

 

そういうことをやり始めて、最初に気づいたことは、「人称(にんしょう)を自在に操るのが、プロの小説家は上手い」ということだった。僕が個人的に割と書きやすいジャンルだった「評論文」や「論説文」や「コラム」といった文章では、語り手がだれであるかはかなりハッキリしていることが殆ど(=すなわち筆者自身)だ。ときどき、筆者ではない人称が持ち出されて何かがそれによって代弁されるようなケースはあるけど、基本的には人称は筆者その人自身に固定されている。

 

しかし、小説では人称の揺れ動きがかなりあるということを、僕は発見した。それどころか、人称があいまいですらある。つまりその小説における主人公が主語なのかはたまた筆者が主語なのか、もしくはまるで映画のナレーションのように何かストーリーの語り部がその小説のために専任されていてそいつが語っているのか、そういういくつかのケースの複合的な曖昧さが、小説における「語り」の人称だったりするのだ。

 

なので、小説における「語り」は、映画の登場人物の語り(=脚本)とはピッタリ一致することはないし、また僕らが現実の社会や私的な生活において行う会話の仕方とは全然異なるテイストで書かれていることが多かったりする。

 

文章や映画や、それこそ日常生活をも「コンテンツメディア」と捉えるなら、そのモダリティ(伝達表現手段の種類)の違いによって「語り方」が全然違うのだ。そして、各モダリティにおけるその「語り方」はそれぞれのモダリティにふさわしいやり方で表現されているのだ。

 

だから小説家と脚本家は同時に出来る人もいれば職業として別々だったりするのだし、映画や舞台芸術における「演出家」が美術館におけるキュレーターとは少し違う職業であったりするのだろうし、モダリティはその表現方法について大いなる違いをもたらす。

 

ああ、小説を書くノウハウについての話をしていたのだった。で、とりあえず僕の好きな作家の書いた短編小説集を数冊、プログラマーの自分が「リバースエンジニアリング(=設計図のない機械装置を分解して、その設計を再現するようなこと)」のように読み込んでいった結果、とりあえずその人称については勘所が大体つかめたように思う。

 

ちょっと長くなってしまったので、記事を分けよう。今日の所はそんな感じで、小説においては「語りの人称性」が評論文とかと比べると割と重要で、それについてのノウハウは小説というジャンルに限らず映画とかTVドラマとかはたまた楽曲における歌詞とかに至るまで、モダリティ毎に色々な相違があってしかるべきなんだ、という話までにとどめておきます。

 

「小説の書き方について自分なりに理論体系化を試みている」という話について、続編を次回のエントリで書こうと思います。

哲学の意義が分かんなかった高校生時代の俺へ

俺(高校生時代の自分)「人文系とか哲学とか意味なさすぎワロタwww 数学できないから曖昧さに逃げてるだけじゃんwww」

私(今の自分)「ほう。君は数学や物理が好きな理系なのだね。」

俺「そうだけど?哲学とかマジ無駄じゃね?宇宙の究極の物理法則を解き明かす学者だけいれば他はいらないっしょ?まぁ人工知能も計算機が速くなればそのうち出来るっしょ」

私「なるほど。で、君はその究極の法則とやらを解き明かしたいのかね?それは人類がいつかは解き明かせるという見込みがあると信じてるのかね?」

俺「それはさぁ、科学はどんどん進歩するんだからいつかは絶対解き明かされるはずじゃん?違います?」

私「ふむ。そういう考えは、確かに一つの立場としてありうる。」

俺「ん?他にも科学的に訪れる未来があるっていうの?」

私「まぁ、どこまでいっても究極の法則がわからないというケースはもちろんありえるな」

俺「それは、究極の法則なんて無いということ?」

私「まぁそんなところかな。そもそも法則を『あたらしい出来事』に毎回当てはめるのは人間だしな」

俺「ふーん。まぁ確かにニュートン力学が出来上がる前からみたらニュートン力学は完成した究極の理論みたいなものだし、アインシュタイン相対性理論だってかなり究極に近いけど説明できない物理現象が残ってるのだから、未来にまた革命的な理論が作られてもさらに『それでも説明できないこと』が出てくるのは考えられるか」

私「そうなんだよ。お前はなかなか飲み込みが早いな。そんな調子で大学行って暇なときに哲学の本とか読めばお前は面白がれると思うぞ、保証する。」

俺「でもさ、物理法則じゃなくて人工知能はどうなのよ。哲学者ってプログラム書けないくせに偉そうに認識のメカニズムがどうのこうのとか語るじゃん?あれ本当にちゃんと考えてんのか疑問なんだけど。ファッションで『なんちゃって理論』を並べてるだけなんじゃないの?」

私「ふふふ、お前は本当に『いま、この時代の科学のこと』しか知らないのだな。まぁ無理もない、高校生とはそういうものだ。では先ほどと似た話になるが、コンピュータの性能が進歩すれば『いずれは人間の知能』あるいは『人間の意識』がコンピュータ上に実現すると考えているのだな?」

俺「そりゃそうでしょ。人工知能は理論的には可能で、コンピュータの性能が足りないから実現してないだけじゃないの?違うの?」

私「お前のような頭の中がお花畑なやつ、嫌いじゃないぞ。とりあえず教えてやろう、 『真の人工知能の理論的な可能性』はまだ全く示されていない。そもそも知能や意識といったものが科学的にちゃんと定義されてもいない。」

俺「だから数十年前の偉い科学者が、チューリングテストとか色々考えたわけでしょ?俺知ってるよ。そういうのだって科学的にどういうテストや実験をすれば知能や意識の存在を確かめられるか、きっと分かるようになるよ。それも科学者が考えるんだよ。」

私「ふむ、お前なかなか頭が良いな。本質的な議論に近づいてきたな。じゃあ聞こう。その『テスト方法を考える』自体はコンピュータの性能の進歩とは独立、『いますぐ考察できる』テーマだと思わないか?」

俺「あ、そうだね、確かに。でも世界中の科学者の知性を総動員してるのに今のところ良い答えが見つかってないのは不思議かも…。」

私「そうなんだよ。まぁこの際ハッキリ言ってしまえば、科学という『知の方法論』の上でそれを考えるという『縛りゲー』をしてる限り無理なんだろうな」

俺「え、科学者には『本当に知能や意識があるかを実験で確かめる方法』が考案できないっていうの?科学って今の人類の豊かさを支えてるんだから、そんな限界があるなんて言われても納得できないよ」

私「そう思うのも無理はないだろうな。でも科学者はそれを数十年必死で考えたと思うぞ。お前なんかよりはるかに頭のいい学者が総動員で考えてもまだわからないんだ。この事実をお前はどう思う?」

俺「そっかぁ。最初の物理の話となんか似た話になってきた気がするよ。」

私「ハハハ、お前は素直でよろしい。じゃあ、人類は人工知能の夢をあきらめるのかな?」

俺「うーん、可能か不可能かわからないことにエネルギーを注ぐのは無駄な気もするけど、なんか作戦を変えて出来ないのかな?さっき言ってたけど科学がだめなら例えばみんなの投票で『こいつは意識があるぜ』みたいなのを多数決で決めるとかさ」

私「それも一つの方法だな。でもそれは社会制度による運用すなわち政治的な解決手段であって、人類の知を使った手段ではないな。」

俺「じゃあ、何か方法があるの?」

私「ようやく最初の話にもどることが出来たな。それが哲学なんだよ。実験や観察などによって確かめることのできない対象にも、人間は思考を及ばせることができるんだ。その究極形は『形而上学(けいじじょうがく)』と呼ばれている。」

俺「ふーん、それって宗教みたいじゃない?」

私「宗教性が皆無だとはいわないが、宗教とは違うんだ。宗教は教義によって『真理』をアプリオリ天下り的)に定義してしまうんだ。でも哲学や形而上学は違う。人間の知、特に言葉や文章(テクスト)を使って『どのくらい真理性があるか』を吟味していくんだ。それは科学と違って一方的に積みあがっていく保証はなく右往左往することもあるし、後退してるようにみえることもある。でも、哲学という人類の知はそうやってどんどん『洗練』されていくんだ。進歩だけが未来じゃないんだ。哲学とはそういうものだ。」

俺「へぇぇ。なんか、科学がすべてだと思ってたけど、いろんな考え方があるんだね。結構それも面白そうって思ったよ。ところで、オジサンは誰なの?」

私「ようやくそれを聞いてくれたか。実はな、私はお前の未来の姿なのだよ。」

俺「えっ(ドン引き)」

私「えっ(ドン引き)」

人工知能は月食を珍しがれるか

今日は皆既月食があった日でした。会社のみんなもビルの外へ観察しにいってたし、SNS上も薄暗く陰る月の写真でもちきりでした。

 

月食って見た目の上ではいつもの三日月とかとそんなに違いは無いように思うので犬や猫は気づいてないかもしれません。でも一部の昆虫とかは月の光が短時間で変化することを敏感に感じ取ったりしてるのかもしれませんが。

 

私たち人間は地球上の生き物の中でも特に「珍しがり屋さん」だと思います。それはなぜかといえばもちろん知能があるからでしょう。

 

普段、星々はバラバラに周回運動してるだけなので、一直線上に並ぶというのはいわば「例外」です。例外に驚き、その理由を知りたいと思う感情が、背後にある「世界や事物の仕組み」を解き明かそうとする力を生み、それが原動力となって私たちは文明を発展させてきたとも言えます。

 

しかし例外に敏感であることは悪い副作用をもたらすこともあります。それは、些末な例外に振り回されることで、本来の大事な「通常のケース」をおろそかにしてしまう恐れがあることです。人工知能ではそういう恐れが常にあって、過学習と呼ばれますよね。

 

人間が「例外に敏感」であるにも関わらず、人工知能のように過学習しすぎないのは、「概念的な抽象化が出来て、それを他のことに応用できる」、「社会性つまり他者とのコミュニケーションが極端に走ることへの抑止力になっている」、といった今の人工知能が十分に備えていない能力を持っているからです。

 

だから、ちゃんと月食を珍しがれる人は、人工知能との差別化が出来ているとも言えるかもしれません。

 

かくいう僕は全く興味なくて一瞥(いちべつ)もしなかったので、そんな僕みたいなやつは近いうちに人工知能に淘汰されてしまうのかもしれません、なぁんてね。

県境を旅してまわるような

思うところあって、短めのコラムやエッセイを(できれば)毎日UPしていこうと思った次第。

 

今日は連休明け(カレンダー上は「飛び石」でしたが有給休暇をいただきました)のせいか、午後イチの時間帯が非常に眠く、仕事にならなかったのでオフィスビルにある書店をブラブラしてました。

 

色んな本を拾い読み立ち読みした中で、ふと視界に入った本がありました。

 

「県境を旅するガイド」(違うかも。正確な書籍名忘れた)

 

まぁ、ニッチな趣味ですよね。こんなの相当のヒマ人しかやらんだろ、って思っちゃいそうですが、趣味とはそういう無意味なものほど楽しかったりするのも事実。思わず手に取って立ち読みしてしまいました。

 

内容は想像通りの、県境に建つ看板のグラビア写真がページの中央にあって、それをマニアックなネタを語る文章が取り巻いているといったページ構成。パラパラとページをめくっているだけで、この本を編集したスタッフの方たちには「友達になったら絶対楽しいやつ」しかいないと確信できます。

 

そもそも県境というのは、人というか社会が決めた都道府県という行政区分によって成立する極めて人為的な地理事情だったはずです。本書はそれをあたかも観光名所であるかのように語り、最終的には旅情をもほのめかすその編集っぷりの面白さ。

 

都道府県などというものは、歴史の恣意性によっていかようにもなりえたはずのものです。だからe=mc^2(相対性理論におけるエネルギーと物質の等価性を示す式)などと比べれば、それが大いに「自然界の真理性」に欠くことは明かです。それが私にとってのこの本の「おかしさ」であり「おもしろさ」でもあったのですが…

 

しかし「観光や旅情とは何か?」を、よくよく考えてみると、自然の摂理を反映したような絶景はそれはそれで観光におけるエンタメ性の主要素ではありつつも、歴史の偶然性がもたらした大いに人為的なもののほうが案外旅情を掻き立てうるのではないか、ということも私は同時に思いました。

 

これを経済的に有意義な話に置き換えるなら、ビジネスにおける仕事のコミュニケーションでは、客観性を重視して組み立てられたロジックが説得力を持つことが通常ではあるにしても、その客観性の中に我々人間社会の歴史の恣意性みたいなものが題材として取り入っているようなケースは案外多いのかもしれないし、それはそれで説得材料としての地位を確かにもっているのだろうな、と思ったのでした。